2007年06月22日

ふたりの巨人 (その1)



南方熊楠生誕地碑文(全文)
紀州和歌山が生んだ巨人・南方熊楠は、慶応3年(1867)4月15日、ここ橋丁で誕生した。5年後南隣りの寄合町に移転、この周辺で少年時代を過ごす。青年時代にアメリカ、イギリスで独学し、帰国後は田辺に居住、在野で学問一筋の生涯を送り、昭和16年(1941)に死去した。彼の研究は博物学、宗教学、風俗学など多くの領域にわたるが、生物学、特にキノコや粘菌などの隠花植物の世界的な学者であり、また日本の民俗学創設において重要な役割を果たした。他方、環境保護に先駆的に取り組み、近代日本の独創的な思想家として高い評価を受けている。


世界的にも有名な南方熊楠は、幼少の頃から人並みはずれた記憶力をもっていたらしい。 小学校に上がる頃には、すでにかなりの漢字も知っていたといわれ、また4才ぐらいの頃に、隣家からもらった植物の本をもらい、喜んで大切にしたというなどの逸話も残されている。

 巨人・南方熊楠は生まれつきの優れた才能に富み、小学校時代からも目立ったらしく、父弥兵衛はその才能をのばしたいと考え、当時の商人(金物商)の家としては珍しく、開設したばかりの和歌山中学校に入学させたという。

明治16年(1983)3月に中学を卒業して上京、東京の大学予備門(後の旧制一高)を受験して合格したものの、学校の授業には興味を覚えず、鎌倉や日光などで植物、貝類などの標本を採集していたことのほうが多かったらしい。このようにあまり学校の勉学に精をださなっかため年末試験に失敗して帰郷し、父に懇願して渡米した。
 その後、アメリカ、イギリスで博物館などにおいて独学で考古学、人類学などの研究をし、地元の科学誌や随筆紙などに論文などを寄稿し、徐々にその名を知られるようになってきます。

 明治33年(1900)帰国し、田辺を永住の地とし亡くなるまでの37年間粘菌・菌類の調査などを行った。また、環境保護運動などにも精力を注ぐなどし、生涯市井の大学者として研究生活を送った。
 
 和歌山市では平成6年生誕地の橋丁に胸像をたてて顕彰している。
このほか白浜町に南方熊楠記念館(昭和40年開館)、田辺市に南方熊楠顕彰館(平成18年5月開館)があり、それぞれ生前の文書、遺品、蔵書、資料などの保存を行っている。  


Posted by jiiyasan at 14:51Comments(4)