2007年07月21日

鷺の森

   
鷺の森別院 
南海和歌山市駅から東約300メートルに浄土真宗西本願寺[鷺の森別院」がある.。かつて、壮大な規模を誇った七堂伽藍が昭和20年の戦災で灰燼に帰し、今は昔の面影はなくなってしまった。

戦国時代、天下統一を目指した織田信長が石山本願寺などの一向一揆と激しく対立していた時期がある。信長に追われた顕如上人が宗祖親鸞上人らの御影像とともに3年間(1880~1883)一時的にこの「鷺の森」に移転していた時期があった。
 したがって、この間は「鷺の森」は浄土真宗の総本山であった時代であったという。                   
 当時、現在の和歌山市の中心部は「雑賀の庄」といわれ、この土地を「雑賀衆」と呼ばれた一向宗(浄土真宗)の武装集団が支配していた。この集団のリーダ^-であった雑賀孫市の活躍はあまりも有名である。

 天下統一を目指した織田信長に大きく立ちはだかったのが一向一揆。一向宗の本山・大坂本願寺(石山本願寺)などを支援していた「雑賀衆」の奮戦振りは今に伝えられているところである。   
 
 信長による紀州攻めは3次10年間に及んだが、孫市らの奇策や鉄砲集団の抵抗にてこずり、ついに1582年3度目の紀州攻めには息子の信孝に出陣させ、1万5千もの大軍で鷺の森におしよせた。  このときの孫市の兵力が2000あまりの小勢であったといわれ、信孝勢が明日にも「鷺の森」に突入してくるとの情報があったため、そのときは寺に火を放って御真影とともに全員討ち死にすると決めていたという。 しかし、信長が本能寺で討ち死にしたとの報がもたらされるや、信孝らがすぐに退陣していったといわれている。


 
 鉄砲集団雑賀衆
 戦国時代「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」と実際に言われていた言葉らしい。この戦国最強の集団の強さは、南蛮渡来の新兵器「鉄砲」を駆使した新戦術を用いたことだった。

 織田信長なき後、豊臣秀吉の時代となったが、反秀吉派の根来寺の僧兵が焼き討ちにあって滅亡し、また内紛が起こり雑賀衆が消滅したという。

 最近、毎年この周辺の商店街の有志が町おこし行事のひとつとして「孫市まつり」などを催して、甲冑行列や「鉄砲演武」などが行われ、呼びもののひとつになっている。



 血槍洗いの手水鉢 
 
「鷺の森」に程近いところにある専光寺に、「血槍洗いの手水鉢」が残されている。
 
 第3次紀州攻めに遭った雑賀孫市は、必死に防戦したがそのとき右肩先と左手首に負傷したらしく、織田勢が引き上げるときにその血槍をこの手水鉢で洗ったといわれているが、この由緒について何の標示がないのがさびしい。  続きを読む


Posted by jiiyasan at 19:05Comments(2)