2007年07月27日

蓮乗寺


雑賀孫市の墓 
 戦国時代に鉄砲集団「雑賀党」を率いて有名を馳せた通称「雑賀孫市」(本名は鈴木孫一であるとの説もある)は、時には"伝説の人物"とか”謎の人物”などともいわれているようだ。その最大の理由は、孫市の生死がはっきりしないからだと思われる。
 
 このような中で、和歌山市平井の「蓮乗寺」に雑賀孫市のものだと言い伝えのある墓がある。
雑賀孫市の墓と伝えられるこの石碑は、五輪塔様式の小さい墓で、碑面に法名「釈法誓」とあり、また墓の傍に和歌山市の掲示板が建っている。
 
この墓についての説明には
 「雑賀孫市の墓は、その銘文によると、「天正17年(1589)建立の墓碑を当寺9世住職正因が天保3年(1832)に建てかえた」ものだと書かれている。

 また、三重県の熊野市にも孫市終焉の地とされるところに供養塔があるといわれ、法名も「釈広徳」とのことである。 


 蓮乗寺
 蓮乗寺は、和歌山市平井にある古い寺で、浄土真宗本願寺派別院であるといい、寺の付近は戦災を免れたこともあり、昔の町並みをそのまま残している地域のひとつである。

 古文書などによると、孫市はこの寺の付近の小字「政所の坪」とよばれるところに館を構え、この地区の頭領であったと伝えられている。このため、孫市は”平井孫一”ともよばれていたという。
 天正8年(1879)織田信長の紀州攻めの際は、この平井の頭領として「雑賀衆」に加わり奮戦し、また本願寺の鷺の森移転の際には雑賀衆の一員として誓紙に連署しているともいう。
                                         (前記の市の掲示から)  


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2007年07月21日

鷺の森

   
鷺の森別院 
南海和歌山市駅から東約300メートルに浄土真宗西本願寺[鷺の森別院」がある.。かつて、壮大な規模を誇った七堂伽藍が昭和20年の戦災で灰燼に帰し、今は昔の面影はなくなってしまった。

戦国時代、天下統一を目指した織田信長が石山本願寺などの一向一揆と激しく対立していた時期がある。信長に追われた顕如上人が宗祖親鸞上人らの御影像とともに3年間(1880~1883)一時的にこの「鷺の森」に移転していた時期があった。
 したがって、この間は「鷺の森」は浄土真宗の総本山であった時代であったという。                   
 当時、現在の和歌山市の中心部は「雑賀の庄」といわれ、この土地を「雑賀衆」と呼ばれた一向宗(浄土真宗)の武装集団が支配していた。この集団のリーダ^-であった雑賀孫市の活躍はあまりも有名である。

 天下統一を目指した織田信長に大きく立ちはだかったのが一向一揆。一向宗の本山・大坂本願寺(石山本願寺)などを支援していた「雑賀衆」の奮戦振りは今に伝えられているところである。   
 
 信長による紀州攻めは3次10年間に及んだが、孫市らの奇策や鉄砲集団の抵抗にてこずり、ついに1582年3度目の紀州攻めには息子の信孝に出陣させ、1万5千もの大軍で鷺の森におしよせた。  このときの孫市の兵力が2000あまりの小勢であったといわれ、信孝勢が明日にも「鷺の森」に突入してくるとの情報があったため、そのときは寺に火を放って御真影とともに全員討ち死にすると決めていたという。 しかし、信長が本能寺で討ち死にしたとの報がもたらされるや、信孝らがすぐに退陣していったといわれている。


 
 鉄砲集団雑賀衆
 戦国時代「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」と実際に言われていた言葉らしい。この戦国最強の集団の強さは、南蛮渡来の新兵器「鉄砲」を駆使した新戦術を用いたことだった。

 織田信長なき後、豊臣秀吉の時代となったが、反秀吉派の根来寺の僧兵が焼き討ちにあって滅亡し、また内紛が起こり雑賀衆が消滅したという。

 最近、毎年この周辺の商店街の有志が町おこし行事のひとつとして「孫市まつり」などを催して、甲冑行列や「鉄砲演武」などが行われ、呼びもののひとつになっている。



 血槍洗いの手水鉢 
 
「鷺の森」に程近いところにある専光寺に、「血槍洗いの手水鉢」が残されている。
 
 第3次紀州攻めに遭った雑賀孫市は、必死に防戦したがそのとき右肩先と左手首に負傷したらしく、織田勢が引き上げるときにその血槍をこの手水鉢で洗ったといわれているが、この由緒について何の標示がないのがさびしい。  続きを読む


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2007年07月16日

台風一過 (磯の浦海岸)

台風4号が通過、待ちかねた海水浴客で浜や道路があふれました。
浜には台風がもたらしたゴミが散乱したままになっています




サーフィン族
は、浴客とセパレートされた区域でよい波がくるのを待っている。



駐車場は満杯少し離れたここにもこのとおり。

  


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2007年07月13日

七曲市場



七曲市場 和歌山県庁の西部にある雄湊地区に、「七曲市場」がある。この地区には”北・南甚五兵衛丁”植松丁""網屋丁"などのユニークな地名を持つ一帯がある。この中の「七曲り」という名の地名のあるところに鉤状につづく通りに昔ながらの市場が展開している。

 この「七曲市場は江戸時代後期に開設されたようで、現在八百屋、魚屋、肉屋、総菜屋さんなどの食料品店、花屋、日用品、のほか薬屋,電器屋など現在約40の店が開店している

聞くところでは、最盛期には市場の外周の道路にも出店が10数店があって、常時100店近くの店が営業していたそうで,当時の市場の規模の大きさや活気が偲ばれる。







現在、朝方にはかなりの買物客があるとのことだが、昼間は昔に比べ人通りも少なくなり閑散としているようである。十数年前までは、年末などには正月用品を買い求める人々でものすごく賑わったというが・・・・・・・。

 しかし、今でも一歩市場に入ると威勢のよい掛声が飛び交い、昔の市場の雰囲気そのものが残っている。時代が変わり人々の生活スタイルが変化したため、このような商店街が衰退してしまったが、最近になって一部に対面販売のよさが見直されてきていると聞いているが・・・・・・。

 このマーケットが魅力ある商店街として、いつまでも続くように頑張ってほしいものである。  


Posted by jiiyasan at 22:03Comments(5)

2007年07月06日

ふたつの像と碑


 
 二宮金次郎像

 私たちの子供の頃には必ずといってもよいほど小学校にあった「尊徳さん」の愛称で親しまれてきた二宮金次郎さんの像を何十年ぶりかでみかけた。薪を背負って歩きながら読書をする姿は、あまりにも有名であったが、戦後は見かけなくなって久しい。

 私が見かけたこの像は、材木橋(和歌山図書館東側の道路にかかっている)の傍の「水天宮」さんにある。約1メートル足らずのちっちゃな石製の像で、台座には昭和14年卒業記念と寄贈者名があるからどこかの小学校の校庭にあったものを移設したもののようだ。

 「二宮金次郎」像は、銅製のものは戦時中の金属供出で、石製のものは戦災などでほとんど消失したから市内では見かけなくなったのはわかるが、郊外の学校でも見たことがなかった。         
 戦後なって古くなった校舎を建て替えたときに撤去されたままになったのではといわれ、また子供がこんな真似をしたら交通事故にあうから危ないという意見もありそのままになったと聞く。

 また、幼少にして一家離散し、働きながら学んだ金次郎が農民から幕臣となり、破産寸前の藩の財政再建を次々と成功させたことでも知られ、たくさんの逸話が残っている。                   最近、教育の見直し論議が盛んになり、金次郎に関する書籍なども多くみられるようだ。


 忠魂碑

 忠魂碑は,国のために勇敢に戦い戦死したり、また戦病死した人々の魂を祭った碑で,招魂碑などとも言われ、学校や役場などに立てられていたものである。私の小学校でも関係者が寄って毎年招魂祭という神事が行われていたようにおもう。

 戦後は護国神社にだけ建っていると聞いていたが、最近になって偶然近くの神社の境内にあるのを見つけた。碑面には昭和13年4月A海軍大将書,△△村との刻印があり、前掲の尊徳碑と同時期に造られたもののようだがどこに立てられていたものなのか。 

戦後、軍国思想の象徴ということで、奉安殿などと一緒に占領軍からの撤去指令が出され、当時全国に3000以上はあったいわれた忠魂碑はどこかに埋められたと聞いていた。
 その後、占領が終わった後在郷軍人会や遺族会等が中心となり掘り起こされたものもあると聞いていたことがあるがついぞ見かけなかった。 今頃になるまで、 こんな身近なところに建っていたのにぜんぜん気がつかなかったとは迂闊だった。

  


Posted by jiiyasan at 12:59Comments(4)