2007年08月29日

地蔵盆


地蔵菩薩
 
 毎年8月23~24日になると、各地で「地蔵盆」がまつられます。昔から、「地蔵盆が終わると秋の気配を感じる」といわれてきたが今年は例外らしい。 
 
 地蔵盆の祭り方は、その土地によって異なるようで、老人クラブ、隣組班、あるいは近くの有志等などがその土地の風習を受け継いでそれぞれのお祭をします。

 年に1度のこのお祭になると、お地蔵さんは体を清められ、お頭巾や「よだれかけ」などが新しい物にとりかえられます。また、御餅やお菓子、お握りなどが供えられ、所によっては子供たちの盆踊りなどがにぎやかに行われた。    
 

 
 地蔵盆の由来はいろいろあるようで、「身代わり地蔵」とか「水子供養塔」とかあるようです。たとえば幼少のときに失くした子供を供養し、地獄の鬼から守るための守護神としてその親が建てたというものもある。

 地蔵盆は子供のお祭として受け継がれ、昔はお供え物のおさがりを目当てに子供たちの楽しみの行事の一つであったが、最近の家庭生活の変化で豊富になった食料や少子化のためか子供の参加も少なくなり、だんだんとさみしい催しになりつつある。
  (左)糸切地蔵尊    (右)八幡地蔵尊   







   


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2007年08月24日

おどるんや

 
 おどるんや 



  
 8月19日(土)20日(日)の2日間”おどるんや”(紀州よさこい祭)が和歌山市内5会場で盛大に繰り広げられました。

 今年で第4回目の開催(NPO紀州お祭りプロジェクト主催)になるとのこと。年々と参加チームが増えて、今年は県内外から48チーム2,500人が参加し、連日35度を越す猛暑のもとで、各チームごとに鮮やかな衣装や息の合った演武の披露は見事でした。

 元気な街づくりを目指してはじめられたこの催しが、ますます盛んになるようになり、期待された街づくりが実現するように祈りたい。



 地方車(じかたしゃ

 音楽装置を積んで特別に飾り付けをしたトラックのことで、パレードの先導をします。地方車にはスピーカーと踊り子を照らすためのライトなどを備えて演出の重要な役目をつとめています。
 
各チームごとに、それぞれ特色のあるオリギナル曲に合わせ、振付師が振付した踊りで見物人をあきさせないように工夫され、活気あふれる催しです。  続きを読む


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2007年08月18日

リタイヤーしました



チンチン電車と蒸気機関車
 私たちは、長い間市民の足として活躍してきましたが、社会の変化や科学の進歩等で勤めを終えて、現在は和歌山城の近くの岡公園で静かに余生を送っています。

チンチン電車(左
 和歌山市内を走っていた路面電車が廃止されたのは、昭和46年4月(1971)でした。
車掌さんが後部の昇降口にブラ下がっているロープを引っ張って運転手に発車の合図を送った時、運転席の鐘が「チンチン」と鳴ったことから市電の呼び名となったもの。

私もこの「チンチン電車」で通学し、また通勤や買い物などに長年利用させてもらいましたが、、自動車社会の到来で邪魔者扱いをされて、主役の座をバスに譲りはや36年が経ちました。

 和歌山市内で市電が走り始めたのは明治42年(1909)であったとのこと。この電車が廃線になった当時は、和歌山市駅・和歌山駅・新和歌の浦と海南駅でしたが、バスが走るようになってから市内の景観も随分変わりました。
 
 いま、和歌山に市電が走っていたことすら知らない世代が多くなり、この「ンチン電車」のほかに市バス(和歌山バス)の停留所のひとつに「車庫前」という名前が残っているだけになりました。


 蒸気機関車C57118号(右)
 この蒸気機関車(くまの号)は、かつて紀勢線(当時は紀勢西線)や和歌山線を走っていましたが、昭和47年3月(1972)にヂーゼル機関車と交代しました。
 現在は、全線が電化されて旅行や通勤が快適にできるようになりましたね。

 私はかつてこの蒸気機関車の時代に数年間通勤に利用させてもらいましたが、冬場はともかく夏には冷房などの設備はなく、窓を開けておくと煤煙が飛び込み大変でした。トンネルに入ると熱くとも窓は閉めておかないと大変でしたね。時には汗まみれの顔が真っ黒になり、下車してから同僚がお互いの顔を見合わせ笑いあったものでした。
 
 案内版によると、この機関車は,昭和14年の国産車で運転時の自重が114トン余りで最高速度110kmで走ったとあり、また日本各地の機関区を走り周り、この岡公園にくるまでの走行距離は256万キロ(地球の赤道上を60回以上に相当)におよんだという。                        



   


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2007年08月10日

太田城の水攻め(2)



小山塚
 太田城が秀吉の大軍によって水攻めにあい、太田党は勇敢に戦ったものの、1ヶ月余の抗戦の末落城することとなる。この際、女、子供など多数の人を救うため、城内で自刃した太田左近ら武将の首が葬られた首塚で、現在、「來迎寺」の東北角にある。 
 
 この小山塚は、昭和20年7月、市内太田538に建立されたが、同60年の付近一帯の区画整理事業の際、、「太田城史跡顕彰保存会」がここに移設したもので現在大切に保存されている。




惣光寺(毘沙門天)
 
 太田城跡の來迎寺から程近い場所(田中口駅付近)にある「惣光寺」に、「毘沙門天」が祀られている。この寺は、平安時代前期に空海が現地近くを訪れた際に,霊夢を見て付近の林に1寸8分の黄金の毘沙門天像を得たので、自ら木造の毘沙門天を刻みその体内に仏として収めて安置したといわれている。

 その後 天正年間(1573頃)に雑賀一揆との戦火の際に、惣光寺が灰燼に帰したが、安置されていた「毘沙門天」が太田城に逃れて焼失を免れた。その後太田城の守護神として崇拝の的となっていたが、太田城が滅亡した際にこの寺に移されて今に至るという。

 現在、同寺では太田城の水攻めで命を落とした兵士たちの供養を毎年4月に行っているという。




大立寺の山門
 太田城跡から西約1キロにある「大立寺」(橋向丁)にある山門は、かつて太田城の東大門であったといわれてている。(和歌山市指定文化財)
 
 高さ5、8mあり材質は欅(けやき)と栂(つが)で造られた豪壮な山門で、太田城が落城したのち、この大門のみが市内吹屋町の「功徳寺」に移され、さらに第2次大戦後に大立寺の山門として移築されたものである。
                                       (和歌山市指定文化財)

 

   


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2007年08月03日

太田城の水攻め(1)




太田城跡の碑
 
天正13年(1585)豊臣秀吉は6万の大軍を率いて紀州攻めをした。
そのとき太田城に攻めよせた際、太田党は太田左近宗正を大将として、約5千人が太田城に立てこもり、秀吉軍に強く抵抗した。

そこで秀吉軍は城を取り囲む総延長5~6kmに及ぶ堤を築き紀ノ川から水を引いて、水攻めを行ったという。 この攻防は約1ヶ月におよんだが、ついに左近ら中心人物50余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されて開城したとされている。

現在、この太田城の本丸跡を示す立派な石碑が建てられている。
 
          


來迎寺

 
 太田城の本丸跡とされる場所は、この來迎寺(太田529)である、太田城は、当時この來迎寺と隣りの玄通寺を中心として東西250m、南北200mの広大で,城の周囲に深い堀をめぐらし、堅固な城壁で囲まれ三つの大門などを持っていたという。
 
 今は、戦後の都市計画事業などで当時の姿をとどめるものが失われてしまった。
  


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