2007年09月09日

偉人・陸奥宗光


 陸奥宗光の立像
 和歌山が生んだ偉人「陸奥宗光」の全身像が岡公園に建っている。
 陸奥宗光は、明治維新の際長州の木戸孝允伊藤博文、土佐の板垣退助後藤象二郎らと交流。土佐の坂本竜馬の推挙を得て、勝海舟の海軍訓練所に入り、のちに竜馬が海援隊を組織すると副長格となり、竜馬らとともに倒幕運動などに加った。

明治10年西南戦争のとき投獄されたが同15年出獄。その後政府に出仕し、山縣有朋内閣の農商務大臣、伊藤博文内閣の外務大臣となり、イギリスとの治外法権撤廃の条約改正、清国との講和条約の調印、三国干渉などの外交問題の処理に偉大な功績を残し「カミソリ大臣」とうたわれた。




陸奥宗光生誕の地(碑 
 陸奥宗光は、弘化元年)(1844)和歌山藩の勘定奉行の子に生まれた。現在の吹上3丁目で、当時はこの一帯は武家屋敷街であった。という。
 この生誕の碑は、市バス小松原通5丁目バス停すぐのところに立てられている。
 
 宗光は嘉永5年(1952)9歳のとき父が藩内紛争で失脚したため一家流離の憂き目にあうことになり、江戸に出てv苦学をするなどの恵まれない幼少時代を送ったという。、父の赦免後に脱藩して京都に移住したという。
 明治30年(1897)8月に死去。 享年54才。 墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺。 



 勝海舟寓居の地  
 この碑は和歌山市駅前の南100メート位の地に建てられている。 碑文によると
 
文久3年軍艦奉行勝安房守紀州藩海岸防工事監督のため幕府より和歌山に派遣せられし   時、此処に寓居す  時に坂本竜馬も亦来たりて事に従う」     (昭和15年10月建立)

 とあり、当時の幕府がわが国の開国問題の対応におわれていた時期であり、首都京都などの防備の要としての紀伊水道の重要性が認識されていたのだろうか。この時期、宗光は神戸で海舟の海軍訓練所に入ったばかりの時のようだ。  続きを読む


Posted by jiiyasan at 10:25Comments(2)