2007年09月15日

小梅筆塚



紀州藩の藩校督学者であった川合梅所の妻、「川合小梅」が幕末から明治にかけて見聞した事件、世相から身辺の雑事にいたるまで、60年間の出来事を克明に書き残した日記として知られた「小梅日記」の筆塚が和歌山市吉田の「聖天宮法輪寺」にある。

 小梅日記   ~幕末、明治を紀州に生きる~  東洋文庫 (昭和51年刊 全書判 3巻)                                                                          
                    川合小梅著  志賀裕春・村田静子 校訂

          嘉永2年8月~万延2年10月  総頁数289
          文久4年1月~明治3年12月   〃  346
          明治4年1月~明治15年12月  〃  261 
 
 また、作家「永井路子」著の「歴史を騒がせた女たち・庶民篇」(文芸春秋社刊)のなかで、川合梅子を「幕末のマダム・メモワール」と評した記述がある。
 川合家が30石取りの小録ながら、儒者である川合家は来客も多く、家事などに追われる多忙な日常生活の中で「メモ」をとり、せっせと書き続けた日記は後世の貴重な資料として残されるだろうと紹介している。



聖天宮法輪寺(真言歓喜宗)
 この「聖天宮法輪寺」の本堂には「歓喜天尊」が安置されているといわれ、特に紀州6代藩主宗直の信仰が篤く、またこの寺が和歌山城の鬼門方位(東北位)にあたることで「和歌山城鬼門除けの寺」と知られていた。
 なお、川合小梅も「歓喜天尊」を信仰していた縁で、縁者がここに筆塚を建てたものである。

 往時の寺域は広大で、今のJR和歌山駅をも含んでいたいたらしいが、大正年間には鉄道省に駅周辺の土地を徴収され、さらにその後の整備計画等で狭められ、現在の寺域になってしまったという。

 現在、境内には「東の宮神社」がある。(写真:左聖天宮法輪寺 右:東の宮神社の標示がある)
 「東の戎さん」で知られているこの神社は、当初美園町にあった社が戦災で罹災したため、この復興を願う氏子らが、本堂のみ焼け残っていたこの法輪寺の境内に再興をしたいと住職に要請し実現したものだとのことで、境内には古い石鳥居が沢山ある。  


Posted by jiiyasan at 21:00Comments(2)