2007年09月26日

西本ビル

 
 西本ビル(旧西本組本社ビル)                                     和歌山市小野町にある旧西本ビルは昭和2年(1927)に西本組創始者の西本健次郎氏が建立し、同組本社ビルとして使用されてきましたが、昭和20年の和歌山大空襲で付近一帯が焼け野原となった際にもが焼け残った。現在は付近が立て込みやや目だたなくなった感がしますが、3階建の堂々とした偉容を誇っています。

 戦前の旧西本組は、かつて従業員700人を超える大企業で、昭和初期には当時日本で第9位のゼネコンだったとのことです。主に紀勢線の鉄道建設はじめ、満州での鉄道敷設を行っていました。

 このビルは,文化庁が2000年に有形文化財に登録しています。
建築物の寿命が極端に短くなっている日本ですが、数少ない貴重な建造物として長く保存したいもののひとつです


 この西本ビルは、全体としてルネサンス様式造りで玄関のイオニア式の柱や、建物外壁の中層部には目の細かい御影石、上層部の2,3階には茶色のタイル張り屁を四周にめぐらして、古代ギリシャの古典的建築で、見事なプロポーションをもっている。
 


 現在このビルは、1階には食堂、和食器、清水焼等の展示販売店が、2階はコーヒーショップ、3階は多目的ブースとして使用されている。(小野町デパート)。
  
 このビルの内部の壁に僅かに塗装されたあとが見られるが、そのほかに内外部とも改装等は行われておらず、窓なども縦長の上げ下げ窓で建築時のままにしているなど、また椅子、テーブルなどの調度品は手造りのもので、レトロな建物とよくマッチしている。  


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2007年09月20日

友が島


 敬老の日(9月16日)に久しぶりに「休暇村紀州加太」に行きました.。以前は「深山荘」と呼ばれていたこの施設は、紀淡海峡の絶景や、地元で獲れる新鮮な魚料理が人気を呼び、今でも休日前後の宿泊は予約で満杯とのこと。

 私たちは数人で昼食に行ったのですが、予約客で食堂は満席。数年ぶりに見る紀淡海峡はいつもと変わらむたたずまい、この日は波ひとつない穏やかな海で、「友が島」や加太漁港の遠景は昔と変わらぬ素晴らしさでした。
 また、この日は休漁日とのことで、釣り船の姿は一隻も見あたりませんでした。



 加太漁港には雛流しで有名な「加太淡島神社」があります。

この休暇村の付近や「友が島」は、終戦までは陸軍の要塞地帯で一般人の立ち入りや写真撮影等は禁止でした。帰途に淡島神社に寄る予定でしたが、急ににわか雨が降り出したのでやめました。



 売店では、地元で採れるワカメ、ヒジキ、テングサなどの海産物ほか、和歌山名産の梅、金山寺味噌などの土産物が販売されています。また、日によっては地元産のシラスの釜揚げなどの生ものも売られています。  


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2007年09月15日

小梅筆塚



紀州藩の藩校督学者であった川合梅所の妻、「川合小梅」が幕末から明治にかけて見聞した事件、世相から身辺の雑事にいたるまで、60年間の出来事を克明に書き残した日記として知られた「小梅日記」の筆塚が和歌山市吉田の「聖天宮法輪寺」にある。

 小梅日記   ~幕末、明治を紀州に生きる~  東洋文庫 (昭和51年刊 全書判 3巻)                                                                          
                    川合小梅著  志賀裕春・村田静子 校訂

          嘉永2年8月~万延2年10月  総頁数289
          文久4年1月~明治3年12月   〃  346
          明治4年1月~明治15年12月  〃  261 
 
 また、作家「永井路子」著の「歴史を騒がせた女たち・庶民篇」(文芸春秋社刊)のなかで、川合梅子を「幕末のマダム・メモワール」と評した記述がある。
 川合家が30石取りの小録ながら、儒者である川合家は来客も多く、家事などに追われる多忙な日常生活の中で「メモ」をとり、せっせと書き続けた日記は後世の貴重な資料として残されるだろうと紹介している。



聖天宮法輪寺(真言歓喜宗)
 この「聖天宮法輪寺」の本堂には「歓喜天尊」が安置されているといわれ、特に紀州6代藩主宗直の信仰が篤く、またこの寺が和歌山城の鬼門方位(東北位)にあたることで「和歌山城鬼門除けの寺」と知られていた。
 なお、川合小梅も「歓喜天尊」を信仰していた縁で、縁者がここに筆塚を建てたものである。

 往時の寺域は広大で、今のJR和歌山駅をも含んでいたいたらしいが、大正年間には鉄道省に駅周辺の土地を徴収され、さらにその後の整備計画等で狭められ、現在の寺域になってしまったという。

 現在、境内には「東の宮神社」がある。(写真:左聖天宮法輪寺 右:東の宮神社の標示がある)
 「東の戎さん」で知られているこの神社は、当初美園町にあった社が戦災で罹災したため、この復興を願う氏子らが、本堂のみ焼け残っていたこの法輪寺の境内に再興をしたいと住職に要請し実現したものだとのことで、境内には古い石鳥居が沢山ある。  


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2007年09月09日

偉人・陸奥宗光


 陸奥宗光の立像
 和歌山が生んだ偉人「陸奥宗光」の全身像が岡公園に建っている。
 陸奥宗光は、明治維新の際長州の木戸孝允伊藤博文、土佐の板垣退助後藤象二郎らと交流。土佐の坂本竜馬の推挙を得て、勝海舟の海軍訓練所に入り、のちに竜馬が海援隊を組織すると副長格となり、竜馬らとともに倒幕運動などに加った。

明治10年西南戦争のとき投獄されたが同15年出獄。その後政府に出仕し、山縣有朋内閣の農商務大臣、伊藤博文内閣の外務大臣となり、イギリスとの治外法権撤廃の条約改正、清国との講和条約の調印、三国干渉などの外交問題の処理に偉大な功績を残し「カミソリ大臣」とうたわれた。




陸奥宗光生誕の地(碑 
 陸奥宗光は、弘化元年)(1844)和歌山藩の勘定奉行の子に生まれた。現在の吹上3丁目で、当時はこの一帯は武家屋敷街であった。という。
 この生誕の碑は、市バス小松原通5丁目バス停すぐのところに立てられている。
 
 宗光は嘉永5年(1952)9歳のとき父が藩内紛争で失脚したため一家流離の憂き目にあうことになり、江戸に出てv苦学をするなどの恵まれない幼少時代を送ったという。、父の赦免後に脱藩して京都に移住したという。
 明治30年(1897)8月に死去。 享年54才。 墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺。 



 勝海舟寓居の地  
 この碑は和歌山市駅前の南100メート位の地に建てられている。 碑文によると
 
文久3年軍艦奉行勝安房守紀州藩海岸防工事監督のため幕府より和歌山に派遣せられし   時、此処に寓居す  時に坂本竜馬も亦来たりて事に従う」     (昭和15年10月建立)

 とあり、当時の幕府がわが国の開国問題の対応におわれていた時期であり、首都京都などの防備の要としての紀伊水道の重要性が認識されていたのだろうか。この時期、宗光は神戸で海舟の海軍訓練所に入ったばかりの時のようだ。  続きを読む


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2007年09月03日

夏祭りと百日紅


百日紅(さるすべり

毎年晩夏から初秋に咲く紅白の満開の百日紅が、酷暑にもめげず今年も近所の庭に咲きました。


盆踊り(H19・8・6
恒例の盆踊りが近くの福祉施設で開催されました。









 たそがれコンサート(H19.8.11)

 ことし始めて磯の浦海水浴場で中学生の「たそがれコンサート」が行われました







市駅夏祭り(H19・8・25

今年も南海和歌山市駅前で夏祭りが行われました。勇壮な「躍虎太鼓」が響き渡りました。  


Posted by jiiyasan at 09:18Comments(8)