2007年10月01日

板碑『供養塔』



 板碑(いたび
浄土宗西岸寺(和歌山市小人町南ノ丁)の墓地は、道路を隔てた西側にあるが、この墓地入り口正面に大きな板碑がみえる。砂岩製のこの碑は、高さ約3m、巾約1mあり、碑文には建立年代が記入されていなが建立者名などから寛永年間(1620年代)と推定されているという。
 
 この板碑は、昭和60年4月、和歌山市指定文化財(史跡)となっており、墓地入り口脇に解説板がある。

 板碑」 石つくりの卒塔婆のことで、通常は緑泥岩のような平板石を用い、頂きを三角形に造られることが多い。



 安藤重能の供養塔 

この板碑は、大阪夏の陣『寛永元年(1615)で戦死した安藤彦四郎重能の供養のために、弟の安藤彦兵衛直重が建立したもの。
 
 安藤重能は、紀州藩家老・田辺藩主の安藤帯刀の嫡子であるが、はじめ大阪の長福寺に葬られ、のち三河国の安藤家菩提所に改葬された。西岸寺の寺伝によれば、この板碑はもと大阪の一心寺にあったものを移設ものといわれる。一心寺は徳川家と縁故の深い寺であり、三河国の墓とは別に戦没地に近いところに供養塔が営まれたものである。
 
本碑は近世初頭の和歌山地方史上重要な資料であるとともに、当時の墓制の一端を示す資料として注目される。(解説板より抜粋)


画家「川端龍子」の墓

西岸寺には和歌山が生んだ日本画家「川端龍子」(1885~1956)氏の墓がある。
氏の作品は,大作が多く大阪四天王寺の大壁画が広く知られている。昭和34年(1959)「文化勲章」を受章し、41年には「和歌山市名誉市民」の称号をおくられた。
 昭和41年4月没。80歳。龍子は、金力、権力にこびることを何よりも嫌って反抗心が強く、生涯にわたって強い在野精神に一貫した人であった事でも有名。  


Posted by jiiyasan at 01:34Comments(4)