2007年11月06日

徳川吉宗


馬上の吉宗像
 この像は享保年間に徳川吉宗が西洋より馬を輸入したという史実に基き、年齢40歳ぐらいを想定して作られた像とのこと。また、台座は大きな視野で物事を考えた将軍にちなみ、丸い部分は広い世界(地球)を表現している。
 (このブロンズ像は1994年11月和歌山伏虎ライオンズクラブが製作、県立美術館前の敷地に設置したもので上記の説明が添えられている。)

 
 吉宗生誕の地(碑)

 徳川吉宗は貞享元年(1684)10月、城下吹上邸で生まれたとされ、現在この碑が建てられている。 父は紀州徳川家第2代藩主の徳川光貞で、母はその側室お由利である。

 しかし、吉宗は誕生と同時に、和歌山城南西隅にある扇の芝(和歌山城の追廻門付近)に捨てられたという。当時、、厄年に生まれた子供は、捨て子にすれば丈夫に育つという風習に従ったもので、光貞公は自身の産土神でもある刺田比古神社(岡の宮)神主岡本周防守長諄に拾わせることで、神からの贈り物とした。



刺田比古神社(岡の宮) 
 吉宗は5才まで家老加納五郎左に預けられ養育され、のち和歌山城に上がるが、部屋住みの庶子と扱われていた。 のち、吉宗は、元禄10年(1697)4月、葛野藩(現在の福井県朝日町)3万石の大名に取り立てられたが、宝永2年(1705)2人の兄が死去したため、本来であれば家督を継ぐことのない4男の吉宗が、5代藩主となったものである。
 
 その後、享保元年(1716)7代将軍家継公が後継ぎのないまま夭折したため、御三家の中から吉宗公が将軍職に就くこととなり、8代将軍に襲職した。

  将軍職に就いた吉宗は、「享保の改革」を進め、幕府支配体制の強化を図るなどして「徳川幕府中興の英主」といわれた。

このため、 同神社は「吉宗公の拾い親」と知られ、吉宗公の出世にあやかって「開運の神様」と崇められて、全国からたくさんの人が訪れるという。

   


Posted by jiiyasan at 21:20Comments(4)