2007年11月27日

紀ノ川鉄橋等



南海電鉄紀ノ川鉄橋
南海電鉄が現在も使用している紀ノ川鉄橋は、明治36年(1903)に単線で和歌山市に乗り入れたときに建造した鉄橋(手前)で、現在は上り線(大阪方面行き)につかわれています。下り線に使用されている鉄橋は、大正11年(1923)の複線化に伴い増設されたとのこと。

 南海電鉄は、日本最古の民鉄といわれる阪堺鉄道(難波~大和川間を開業)を前身として明治18年和歌山~なんば間を走る鉄道として建設されたものです、
 この鉄橋ができるまでは、現在の紀ノ川駅が終点であったとのこと。



  煉瓦つくりの橋脚
 レンガつくりの橋脚は、築100年以上を経て現在も健在である。
 電車通過時の重みはいくらあるのか。これに耐えているのには驚きだ。
 構造は石とレンガだけだとのこと。

 
 

  レンガ造りの倉庫
  紀ノ川鉄橋の近くにあるこの煉瓦倉庫も、正確な建築年のこ記録はないが、明治後期の建造と推定されている。

 かつて、戦災で焼失するまで和歌山市は日本有数の紡績などの工場が多く、この倉庫も旧和歌山紡績紀ノ川工場の建屋の一部でした。今は数少なくなったレトロな建築物のひとつです。
 (写真は南海電車に線路越しに写したもの)  


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2007年11月19日

首大仏と武家屋敷



首大佛 
浄土宗・無量光寺(吹上5丁目)の境内に首だけの珍しい」釈迦像がある 顔の高さ約3m(奈良の大佛は5m)の像は「首大仏」と呼ばれ、首から上のことなら何にでもご利益があるといわれて、特に受験期になるとお参りする親子が大勢訪れるそうである。

 縁起によると、この「首大仏」は「首大仏様」(おぼとけさま)と呼ぶらしい。

また、縁起には次のような記事が書かれている。その要旨は

 江戸時代の半ばに和歌山城下の武家屋敷で仲間として奉公していた一少年が出家し、京都の本山で修行して「遠心」と名乗り和歌山に帰郷。その後市内納定の一庵(後に大福寺となる)で念仏修行中であったが、その際に一丈六尺に及ぶ大仏様を目の前にしたちいう。このことを知った村人たちは「遠心和尚」の為ならと協力して、銅製の丈六佛を鋳造し完成させたという。

 しかし、「遠心」の没後(1768)67年目に丈六佛の隣りにあった本堂が火災、丈六佛も炎上し溶解してしまったので、村民たちが再興を発願した。そして鎌倉大仏を目標に、まず首だけをさきに溶けた銅を用いて鋳造することになり、 天保11年(1840)に御首だけが完成したので、ひとまず開眼大法要を行った。その後村民たちは仏体を継ごうとしたが、資金等がつづかずにいたところ、安政元年の大地震で大福寺が壊滅してしまい大福寺が廃寺になったため、当寺に安置されることとなったものだという。



 無量光寺
 創建 :文政12年
 由緒  第10代紀州藩主徳川冶宝公が和歌山出身の徳本上人の功徳をたたえて創建され、不断念仏の道場としたとしたといわれる。明治14年の火災で伽藍が縮小されたが、同41年(1908)に末寺の大福寺にあった「首大仏」を受け入れて安置。そのほか宝物が沢山あるとのこと。

 山門には『禁殺生」「禁葷酒肉」 (殺生はしない。生臭いものや酒も厳禁)との碑が左右に建てられ、また「きっちり反省、すっきり出発」と書いた掲示があった。
 





無量光寺は、5本の白い横線の入った黄色の塀に囲まれ、なんとなく格式を感じます。(左)
また、この寺の近くに武家屋敷」が1軒残っている。窓に格子の入った「連子窓」(れんじまど)や「なまこ塀」などを備え、門の左右には「馬乗石」「馬つなぎ石」など昔の名残がみられる。(右)

 いずれも戦災を免れて残ったものであろうが、、このあたり一帯は実際に武士達が生活していたのかと思うと、江戸時代の昔にタイムスリップしてしまう。  


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2007年11月11日

秋の風物詩(菊花展など)


今年の菊花展の優勝(市長賞)に輝いた作品です。



  和歌山城公園菊花展
 和歌山城公園の菊花展は、今年は第51回目の開催というから相当に古いといえる。「和歌山菊の会」の会員のほか老人大学の受講生などが、例年どおり約350余の大菊、小菊や盆栽、福助など丹精こめて育てた出品作は見事である。

 ただ、今年は猛暑の影響で、栽培された方は大変ご苦労された由。今年の会期は11月19日(月)
までです。


 和歌山城の冬支度
 和歌山城では、今年も害虫駆除用の松の木のコモまきがおこなわれています。毎年立冬の日にコモまきをし、翌年3月啓蟄(けいちつ)の日にはずされて害虫を焼却します。
 害虫は松の幹につかず、ワラの部分について越冬するので取り外して焼却すのです。

 お堀端の松並木にもコモまきがされ、恒例の秋の風物詩となています。



 秋の夕陽
 「秋の夕陽は、釣瓶おとし」との諺どおり、日がどんどんと短くなってゆくのが実感される。
工場群のかなたに沈んでゆく夕日、夏にはにぎわった海水浴場には今は人影もなく、やがて来る冬
の訪れをつげている。
  
 今年の冬は、暖冬か、果たして厳冬になるのか。日本の四季の移り変わりの速さに今更ながら感じ入る。  


Posted by jiiyasan at 17:18Comments(4)

2007年11月06日

徳川吉宗


馬上の吉宗像
 この像は享保年間に徳川吉宗が西洋より馬を輸入したという史実に基き、年齢40歳ぐらいを想定して作られた像とのこと。また、台座は大きな視野で物事を考えた将軍にちなみ、丸い部分は広い世界(地球)を表現している。
 (このブロンズ像は1994年11月和歌山伏虎ライオンズクラブが製作、県立美術館前の敷地に設置したもので上記の説明が添えられている。)

 
 吉宗生誕の地(碑)

 徳川吉宗は貞享元年(1684)10月、城下吹上邸で生まれたとされ、現在この碑が建てられている。 父は紀州徳川家第2代藩主の徳川光貞で、母はその側室お由利である。

 しかし、吉宗は誕生と同時に、和歌山城南西隅にある扇の芝(和歌山城の追廻門付近)に捨てられたという。当時、、厄年に生まれた子供は、捨て子にすれば丈夫に育つという風習に従ったもので、光貞公は自身の産土神でもある刺田比古神社(岡の宮)神主岡本周防守長諄に拾わせることで、神からの贈り物とした。



刺田比古神社(岡の宮) 
 吉宗は5才まで家老加納五郎左に預けられ養育され、のち和歌山城に上がるが、部屋住みの庶子と扱われていた。 のち、吉宗は、元禄10年(1697)4月、葛野藩(現在の福井県朝日町)3万石の大名に取り立てられたが、宝永2年(1705)2人の兄が死去したため、本来であれば家督を継ぐことのない4男の吉宗が、5代藩主となったものである。
 
 その後、享保元年(1716)7代将軍家継公が後継ぎのないまま夭折したため、御三家の中から吉宗公が将軍職に就くこととなり、8代将軍に襲職した。

  将軍職に就いた吉宗は、「享保の改革」を進め、幕府支配体制の強化を図るなどして「徳川幕府中興の英主」といわれた。

このため、 同神社は「吉宗公の拾い親」と知られ、吉宗公の出世にあやかって「開運の神様」と崇められて、全国からたくさんの人が訪れるという。

   


Posted by jiiyasan at 21:20Comments(4)