2008年03月31日

孫市まつり


 第4回孫市まつり
「元気な和歌山を」の合言葉に始められた「孫市まつり」(第4回)が、3月30日(日)本願寺鷺の森別院及びその周辺で開催されました。
 ことしは、和歌山城天守閣再建50周年の「城フェスタ」の記念の催しのひとつとして、武者行列は和歌山城「一の橋」から出発し、城内をめぐり和歌山市駅を経て鷺の森別院まで行進しました。
 





 迫力満点の鉄砲演武

  


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2008年03月23日

岡公園

 岡公園(天妃山) (てんぴざん)
和歌山城の南東部にある岡公園には、多くの記念碑や頌徳費等が建立されています。


日清戦争記念碑(左)
山頂付近に三角錐をした「日清戦争記念碑」があります。明治27~28年(1684~95)の日本と清国との間に行われた戦争の記念碑です。

 四役戦亡記念碑(右)
 「四役」とは明治7年から同10年(1874~1877)の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、熊本神風連の乱、西南戦争のことです。
 これら戦で戦死した和歌山県出身の兵士は491名にのぼったとのこと。この碑は、明治12年(1879)に旧藩主徳川茂承らの発起により建てられとのことです。




 長屋喜弥太顕彰碑(左)
   長屋喜弥太(1836~1897)は、天保9年(1836)紀伊藩家臣の家に生まれ、長じて御親兵となり、天誅組、長州征伐などに活躍。 市制施行に伴い初代和歌山市長(明治22~30年)に就任。 
   
  農学博士 高橋克己頌徳費(右)
   明治25年(1892)和歌山市木ノ本に生まれた。大正11年(1922)世界で始めてビタミンAを鱈の肝油から分離抽出することに成功し、大正13年桜井賞、帝国学士院賞を、同14年農学博士の学位が贈られれましたが、その賞金は研究を志す後輩のため母校(和歌山中学校)に寄付されました。この功績をたたえ、昭和44年に和中桐蔭同窓会がこの頌徳碑を建立した。




 公園内には、御作事所(和歌山城内の建物を普請するための作業所)跡や、百間長屋(その職人たちが居住した長屋)跡を示す標識がある。
 公園内には、陸奥宗光の立像のほか、和歌山城築城の際に石垣用の石材を切り出した跡地などが残されています。





  和歌山城南東部は古くから「岡山」と呼ばれていました。また、この山頂に「弁財天社」が祀られていたことことから、弁財天山、または「天妃山」と呼ばれていました。
  なお、この山頂から和歌山城郭の一部が展望できたので、登ることが禁じられていましたが、明治23年(1894)に「岡公園」として公開されました。  


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2008年03月17日

八魂歌碑

  
あゝ、明光号
 昭和15年3月16日、春まだ浅い和歌浦湾は、朝から小雪まじりの強風が吹き荒れていた。この日午前9時半ごろ和歌山中学校端艇員8名が春季練習開始のため、片男波の艇庫からボート「明光号」を紀ノ川へ向けて回漕中、この沖合い2km付近の海上で遭難し、8名全員が死亡した。
 この碑は、この悲しい出来事をいたみ、若い8人の霊を慰めるために、翌年2月、関係者によって建てられたものである。 
             (説明文より転記)

       自がわざを 磨けとひびく 浦波に
             籠もりて八つの 魂眠るなる

 
この碑に刻まれている歌は、恩師の有本武夫先生の作で、また薗田秀之助先生の書であります。また、題字は和歌山中学校出身の駐米特命全権大使(日米開戦当時)の 書である。

 この碑は、「八魂歌碑」と名づけられ、現在、万葉館の南に和歌浦湾に向けて建てられています。



 
 学期末試験を終えた8名のボート部員は、夏の琵琶湖における全国大会を目指して、練習に不便な艇庫より早く紀ノ川へ回漕したいとの熱望にかられ、波たち騒ぐ和歌浦湾に愛艇「明光号」に、紀ノ川繋留に必要な万端の準備を整えて出発した。
 午前9時には、西風がやや強く海上には白い波の穂が見え始めてはいたものの、平生の経験よりすれば乗り切れるとの大きな自信があり、いささかの危惧の念ももたず出航したといわれる。(遭難記念号「明光」より)

 和歌浦湾の景観は、随分変わってしまいましたが、「八魂歌碑」には今も訪れる人が多く、香華の絶えることはありません。また、8名のうち3年生5名もの同級生を失った私は、満67年経った今でもあのときのことはっきり覚えています。  


Posted by jiiyasan at 10:41Comments(10)

2008年03月12日

木本八幡宮

【所在地】  和歌山市西庄宮山1番地
【祭 神】 応神天皇  神功皇后  天照大神


【由緒】
 社伝によると、神功皇后が西国から凱旋されたとき,武内宿弥が幼帝応神天皇を奉じてこの地に上陸して頓宮(仮宮殿)を造りしばらく駐留なされたが、14代後の欽命天皇の詔勅により西暦562年に今の宮原の地(木本1153番地)に「芝原八幡宮」が創建された。
 また、芝原八幡宮創祀以前から地主神として現在の木本八幡宮に天照大神が祭られており、「木の本宮」と呼ばれていたが、秀吉の紀州進攻時にいずれも火災で焼失したという。

 その後、元和4年(1618)の再建に際し両宮を一つに合祀して「木本八幡宮」と公称することになったという。

【本殿】 
 再建された本殿は、鬱蒼とした照葉樹林の小山の杜にあり、桃山時代の遺風が残されている貴重な建造物であるといわれ、現在県指定文化財である。
 また、芝原八幡宮跡には、権殿(かりどの)が建てられました。
  
 


 拝殿と「万葉集難読歌」の碑
 拝殿の前に、西暦658年額田王(ぬかたのおおきみ)が「嚴橿(いずかし)が本」と詠んだ万葉歌の難読歌碑が建てられています。
 
 【由来】
 なお、神社の立て札に書かれた解説によると境内林の「嚴橿(荘厳なカシ)の木の本」に天照大神をお祀りしたので「嚴橿の木の本の宮」と称したのが「木本八幡宮」と呼ばれるようになったということです。


 

 八幡宮の鳥居は、左には「橿の古木」が、右にはに大正11年に昭和天皇が皇太子時代に和歌山県に来県された記念植樹の「楠の木」があり、この鳥居をくぐり数十段の石段をのぼると拝殿に至ります。






 権 殿
 元和4年(1818)に芝原八幡宮と木本八幡宮が合祀されたときに、芝原八幡宮跡に権殿が建てられました。
 現在、権殿には大鳥居がそびえ、毎年10月14,15日には本殿から神様をお遷しして例大祭をおこない、権殿前の広場では無形文化財に指定されている勇壮な「木の本獅子舞」が奉納されます。
 
 






  


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2008年03月03日

雛流し

 雛流し(加太淡島神社)     
     
春を呼ぶ伝統行事の雛流しが、今年も3月3日(月)加太淡島神社で大勢の人を集めて行われました。折からの黄砂で煙ぶる紀伊水道に、3隻の木船に積まれた雛人形は沢山の人に見送られて流されました
 (写真は本殿にズラリと並べられた雛さん。約3万6千体あるとのこと)



 当日、正午から神主さんによるお祓いの神事ののち、巫女さんによって参詣者からの願い事が書かれた人形(ひとがた)と雛さんが3隻の舟に乗せられ、参拝者たちに担がれて海岸へ向かいました。
 掛声などは一切ない、人形たちへの思いをかみしめて行われる静かな行事でした。、
(誰でも飛び入りで担ぐことができるそうだ)




桟橋に到着した人形たちは神主さんの供養を受けた後、沖に引きだされました。



 園児たちや大勢の人に見送られて、人形の乗った木舟は静かに沖に向かいました。
 (追記:最近は、環境問題もあって舟は途中から引き上げられて、海辺で焼却されるとのこと。)  


Posted by jiiyasan at 22:47Comments(6)