2008年05月11日

堀詰橋


 史跡「堀詰橋跡」
 和歌山市築地通りの市堀川と和歌川の出合に架かる「堀詰橋」の袂に史跡を示す碑が建つています。
現在の堀詰橋は、近代的な美しいたたずまいを持った橋となり、橋の中央にバス停などがありますが、かつてこのあたりは紀州藩の諸大名の屋敷群がありました。



 
 「三方出合」
 堀詰橋の架けられている市堀川は、東側を走る和歌川と字形に結ばれており、昔から「三方出合」と呼ばれて水運の要地とされてきました。(写真の水路は鍛冶橋から望見した「三方出合」です。左側の水路は市堀川で、すぐのところに堀詰橋があります)
 市堀川(北外堀)は、和歌山城の築城の際、防備を固めるために造られたもので、あまりにも大きな工事であったため当時の江戸幕府から謀反を企てているのではと疑われ、このため掘削中であった南外堀(新堀川)の工事を中止に追い込まれたとのことで、「堀止」の地名が残っています。

 



  紀州藩表千家屋敷跡碑 
 茶道流派のひとつである「表千家」は、千利休を祖とする本家で、裏千家、武者小路千家とともに「三千家」として知られている。表千家四代江岑宗左は、寛永19年(1642)茶の湯に造詣の深かった初代紀州藩主・徳川頼宣に招かれ紀州徳川家の茶頭として仕えることとなり、以後明治にいたるまで歴代家元は紀州家に仕えた。
 その間「表千家」は中級武家並みの二百石の禄と堀詰橋付近に屋敷を与えられるなどの特別の待遇をうけていたのです。

  


Posted by jiiyasan at 22:45Comments(8)