2009年05月26日

回顧(動員など)

 
 勤労奉仕(1ヶ月)
 日米開戦後の日本は、国民の日常生活は日増しに苦しくなるなか、耐乏生活を余儀なくされたが、若人が戦線に借り出された結果、工場の人手不足を補うため学生が男女を問わず勤労動員された。

 昭和18年(2年生)の夏休みには、私はS君と2人で新潟県長岡市の津上安宅製作所に工場実習に行ったが、帰ると直ぐの9月の1ヶ月間、私達クラスの全員(80名)が川西航空機武庫川工場に動員された。 工場近くの独身寮に入居させられ通勤したが、仕事は単純なものであった。
 
 当時、同工場は日本で唯一の海軍飛行艇の生産工場であったが、高等小学校を卒業したばかりの養成工ばかりが目立ち熟練工がすくなかった。


 勤労奉仕(4月間) 
 翌昭和19年3学期の1月4日から4月23日までの約4ヶ月間、今度は明石市の川西機機械製作所大久保工場(現NEC明石工場)に「電波報国隊」と組織され動員になった。
  
 宿舎は建てたばかりの会社の社宅に分宿、名簿順に4名づつが入居した。、宿舎にはカーキ色の作業服がわりの「女子用モンペ」がおかれており、全員これで通勤した。
宿舎に戻っても当時は何の娯楽施設もない無味感想の生活であり、自然と気の合う仲間同士の入居が行われ表札と異なる入居となり教師をあわてさせた。
 
 また長期の動員予定であり、当初は夜に授業の補習などが計画されていたものの職場で勤務時間などがことなりうまくできずに取りやめとなった。

(写真は、長い動員を終えて学校生活に戻った際に前記の工場からひきあげた際に撮られたもの。4月末にもかかわらず全員外套姿で、校則で定められた戦闘帽ではなく違反のアンパン帽子をかぶっている。反軍国主義へのささやかな抵抗のあらわれだった。)



 動員期間中の食事は三食とも工場の食堂で取れたが、なんといっても育ち盛りの年頃。残業のときに誰かが手に入れてきた「オカラ」を真赤に焼けたブリキ製の石炭ストーブの煙突に貼り付けて焼いて食ったり、また、同室のN君が休みに奈良の実家に帰って持ってきてくれた「クズ湯」を食べさせてもらったときの旨かったことなど、忘れられない。

 神戸は、三宮、元町の瀟洒なまちと、庶民に親しまれた「新開地」があり下宿から近いこともあってよく遊びに行ったが 当時の娯楽といっても映画を見る程度。三宮のガード下の洋画と新開地のシンボル「聚楽館」に行ったもの。
 (写真は当時の神戸新開地)
 
   


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2009年05月18日

回顧(1944)

 
 【引き下げ
 第二次大戦の戦況は、軍発表では「転進」「玉砕」などと伝えられてはいたものの、なんとなく形勢が良くないようだと感じ始めたこの時期だった。、

 私達に直接影響をもたらしたのは「徴兵制度の変更」であった。
当時の日本男子は、国民皆兵制度で満20歳になると徴兵検査を受ける義務が課せられていた。
ところが、戦況悪化に伴い昭和18年末に「徴兵適齢が一年引き下げ」られ「満19歳」になった。

 このため私は19歳(昭和19年の夏)に徴兵検査を受けて「甲種合格」となった。(因みに検査の結果は甲、乙,丙、丁とのランク分けされ丁種以外は徴兵の対象となった。私は予備学生に採用が決定したので、陸軍には入隊しなかった。)
 

   【繰り上げ】
 私は、神戸工専(旧制高工)を昭和20年3月に(1945)に卒業予定であったが、前年の文科系の大学などの徴集猶予措置の廃止につづいて、私達の理工系も6ヶ月の「繰上げ卒業」となり、多くの同級生が卒業と同時に徴兵となった。

 また、この年の1月4日~4月23日までの4ヶ月間、私どもは勤労動員となりで明石市大久保にあった川西機械kkに動員され(学業放棄)しており、結局2年間しか勉学できなかったしなかった。今から考えると散々な学生生活であり青春時代であった。

 「幸運」
上記のように、昭和19年は徴兵適齢の切り下げや、繰上げ卒業などで私達の年代の大半の人ははあまり良い思い出がなかった中で、、私は恵まれた方だったと思っている。(ご苦労された方に申し訳ないが・・・)

 私は幸運にも家から近くの和歌山に「住友」(和歌山)に就職でき、翌20年3月まで会社勤めをした。
短期間であったが、たまたま同工場が「海軍指定の軍需工場」であったために、海軍に行くこととなtっていたために徴集猶予()5ヶ月)となった。
 同工場に就職した同期生のうち半数は陸軍へ行ったが、中には外地に派遣されたものもあり、敗戦とともに抑留生活を余儀なくされご苦労をされた人もあったった。
 
 【海軍】 軍事色の濃かった中学時代ではあったが、なんとなく格好よく見えた海軍に運よく予備学生として行ったことは当時としてはあまり有難いとはおもわなっかたが、結果的に運のよかった方だった。
 

 「ばら色」
 バラ色とは何いろなのでしょうか。
幸福・喜び・希望などに満ちた状態のことらしいが、わが人生にそんな状態になったことがなっかたように思います。

よく聞く「ばら色の人生」には無縁の青春でした。





 
 
 

  


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2009年05月04日

護国神社

 
    和歌山縣護国神社(本殿)
 護国神社は、各県に設立されている神社で、それぞれの府県出身の戦死者などを祀る神社である。
和歌山県護国神社は戊辰の役(明治元年に日本各地で起こった新政府軍と旧幕府軍との戦いの総称)以降の戦争でなくなった3万6千余の”みたま”をまつる。

招魂神社
 護国神社の前身は「招魂社」と呼ばれ、昭和14年(1939)に招魂神社と改称された。
更に第二次大戦中は国の管理下に置かれていたが,戦後は宗教法人としてほとんどの神社は神社本庁の所属となっている。



    和歌山県護国神社は、城内「砂の丸」広場の南にあり、参道は「楠木」や「欅」の大木が茂っている。

 参道入り口の掲示板には、毎年の例祭案内が記載されているが、そのの中に「境内六碑慰霊祭」との記載がある。これは境内にある「歩兵第六十一連隊」はじめ「予科練」「少飛兵」など6団体の各存命者が、国のために亡くなった仲間を弔うために、それぞれ碑を建立し毎年お祀りをしています。
 (以下の写真ははその碑と建立団体です。いづれも「昭和の日」に残された1ページとして撮ったものです。)
 

 (歩兵第二百三十連隊の碑)       鎮魂(歩兵第六十一連隊の碑)





 (陸軍少年飛行兵の碑)          (歩兵第二百十八連隊の碑)  




  忠魂(予科練和歌山県友会 あヽ予科練)   顕彰碑(満蒙開拓青少年義勇団 の碑)
 



  


Posted by jiiyasan at 10:08Comments(2)