2009年06月10日

回顧(1945ー①)

 徴集猶予 
 昭和19年(1944)9月繰り上げ卒業して翌10月1日に近くに建設中の住金和歌山に入社することができた。
同時入社の23名のうち大学卒3名で残余の20名全員が旧制工専卒であった。このうち8名の海軍入隊予定者をのぞく全員が1日も勤務することなく陸軍に入隊させられた。
 
海軍(技術将校と予備学生)へ採用者は徴集猶予の扱いを受け翌年3月に海軍に入隊となった。この措置を受けたのは同工場が海軍の軍需工場に指定されていたからだ。
  (写真は私が通学した神戸の学校正門。昭和20年3月の神戸大空襲によって焼失した)

海軍には20年3月から終戦までの5ヶ月半でこの間の身分は学生で、正式には兵役に服したことになっていない。
 (この記事は次回に記したい。)





 住金和歌山
①昭和15年2月和歌山県が住金誘致のため、当時の湊村外浜地区等の地主715名が持っていた住宅と土地、農地等の売買交渉をし(住宅は立ち退き)工場用地130万坪を造成し和歌山製鉄所の建設をはじめた。(写真は6月7日写した住金の遠景)

 ② 昭和17年に操業を始めた同工場は、当時は高炉を持たない所謂「平炉メーカー」であったが、私が配属された鋼管部には新鋭のドイツ製継ぎ目なし鋼管(シームレスパイプ)の製造工場などを持つ「鋼管部」であった。
 (この年の夏休みの20日間就職予定愁の前記23名全員が近くの独身寮に入れられ工場実習をした。私は前記の製缶工場で 実習をしたので全員が顔見知りであった。)

 ③工場うには若い人がすくなくなり、女子従業員や女子挺身隊などのはか、軍用徴用工などが沢山はたらいていた。戦時中どこの工場でも若者が軍に取られどこも従業員不足となったが、これを補うため軍人として出征できない体の人が軍需工場に「徴用工」として働らかされた。、

 ④私が住金勤務中(19年10月~20年2月)には米軍空襲をうけなかったが、数度偵察飛行と思われるB29が京阪方面から飛来し、そのつど防空壕に退避した。B29が成層圏を飛行機雲を引きながら悠然と飛行しているのを見た女子従業員が思わず「きれい」ともらしたことがあり、上司から怒られていたのを思い出す。



米軍上陸 
 終戦から40日後の9月25日、米軍進駐軍が和歌浦湾や二里ヶ浜海岸一帯に上陸した。その数7000~8000名といわれた米軍の戦車、弾薬などが」上陸用舟艇などで揚陸した。同時に揚陸した食料品などを見てその膨大な物量を目の当たりに驚かされた。
 なんでも大阪、神戸などの港湾の掃海作業が完了していないために和歌山に上陸したという。

上陸した米軍は陸路で京阪神に進駐したが、一部の米兵は焼け野原の鼠島(現在の築港地区)一帯にキャンプを張り、また焼け残りの旅館の一部が将校宿舎に接収された。

夜になると我が家の近くの海上の米軍艦船が点灯し、不夜城の様相を呈しとなったが、おびただしい艦船や豊富な物量に驚かされたものだった。しばらくしてから役場からの通知により、住金倉庫の運びいれた米軍物資の整理のために2、3回使役に狩りだされた
 (写真は再建51年の新緑にはえる和歌山城)




 


  


Posted by jiiyasan at 15:19Comments(7)