2009年06月24日

回顧『1945-②)

 海軍予備学生
 
 「第6期一般兵科(特別整備班附)海軍予備学生を命ず 横須賀市大楠海軍機関学校に入校を命ず

 昭和20年(1945)3月1日私は指定された神奈川県厚木海軍航空隊に入隊した後、身体検査を受け上記のような命令により翌2日同期生100名とともに大楠海軍機関学校に入校した。その後8月15日の終戦までの5ヶ月半の短期間ではあったが海軍士官としての基礎訓練をうけました。同期生は大学卒4名をふくめ全員工専理工系の100名であった。
 
 (写真は入校時に支給されていた軍装品で持帰りが許された中の一つ。海軍軍人を象徴する短剣も物資不足のために刀身は木に銀紙を巻いたいわゆる「竹光」です。)




 1934年に制定されたというこの制度は、正規の海軍士官の養成学校であった海軍兵学校(広島・江田島)が3年間の養成期間が必要であったが、この補充のために設けた制度であり、短期間(1年間)に海軍士官を養成する制度であった。
 
 当初は海軍航空予備学生と呼ばれ飛行予備士官の養成が目的だったとのことだが4年後には整備科が新設、大学工学部
や旧制工専の卒業者を対象として募集、その後一般兵科(陸戦、対空、対潜、通信など)の養成、募集が行なわれたという。
 
 作家で有名な「阿川弘之」さんは第二期予備士官(通信)になられ、中国で中尉で終戦を迎えられたと自伝に書かれている。


【海軍志望のこと】
 多くの海軍予備学生志望者がそうであったように、私もなんとなく陸軍が嫌いで「どうせ兵隊に行くなら海軍へ」という単純な重い込みが強かった。特に中学に在学中、年々強まる軍事教練の教官(予備役陸軍下士官)がなんとなく尊大な態度を撮るように感じられ、これ対するの反発心を持っていたのは私だけではなかったように思います。
 (入校後、はじめての上陸(外出)許可の日近くの写真館で撮ったもの。薫刀は撮影用の借り物)



 
 まず早く娑婆気を抜くように言われ言葉づかいから指導される。「あんた」「君」や「私」「わたくし」などは禁句、「貴様」{俺」に、、そして校内の移動はすべて「駆け足」に、のぼり階段は一段とばしで、逆にくだり階段は1段づつで降りると指導。
 「総員おこし」がら「巡検終わり」まで分刻みの日課だった。勿論{鉄拳」は数十度いただいたが・・・・。
 また、私達の在校していた「大楠機関学校」は新設したばかりのようで、寝所は「ハンモック」ではなく2段ベッド>であった。

夾竹桃
この夾竹桃は近くのスーパーに毎年夏中咲いているもので、高さ5メートル位の大きなこの木の確かな樹齢は知りませんが毎年夏中には咲きます。(09-06-19撮影)






  


Posted by jiiyasan at 09:17Comments(2)