2009年08月06日

真珠湾

 パール・ハーバー(真珠湾)      
    
 真珠湾のアリゾナ記念館に、山本五十六の肖像画がある。米国が決して忘れない攻撃を指揮したにもかからず、<人望ある艦長にして卓越した戦略家。合衆国との戦争に反対していた>と、説明書きは意外に好意だ。◆責務を全うした軍人、というのがヤマモト評らしい。故郷・新潟県長岡市の訪問団が昨年秋、真珠湾の戦死者に花輪を捧げた際一行は米側から棘(トゲ)のある言葉を聞くことも覚悟していたそうだが、杞憂に終わった◆長岡も終戦直前の空爆で焦土と化している。山本の故郷ゆえに標的にされたとの説もあるが、定かではない。いずれにせよ、真珠湾で山本個人への悪感情に出会わなかった訪問団は確信した。あの戦禍繰り返すまい、と訴えるのに長岡とホノルルほどふさわしい組み合わせはない、と◆山下清も張り絵で描いた長岡の花火は毎年、戦争犠牲者を悼んで打ちあげられてきた。これを真珠湾でもみてもらいたい、との夢が膨らみつつある◆今日信濃川河川敷の花火会場を訪れ、その迫力を堪能する予定だ。長岡の三尺玉が真珠湾を彩る日は遠くないかも知れない。

(この記事はさる8月2日付けの読売新聞の「編集手帳」の記事全文です。)
 



 山本五十六元帥の生家
 旧日本海軍の名将山本五十六大将は、駐米武官などの経験から米国と日本の圧倒的な国力差を感じていた。昭和11年2月海軍次官に就任した時、米内大臣や井上事務局長などとともに日独伊三国などに反対し、また日米開戦に反対していたことでも有名。
 その意に反して1939年海軍連合艦隊指令長官に指名され就任。真珠湾攻撃の航空機を使った奇襲作戦をたてた。当時
 「アメリカとどうしても言われれば、はじめの半年間はなんとかなるが2,3年と長引けば勝てる自信はありません。」と言って日米開戦に反対。真珠湾攻撃には成功したが、翌年ミッドウエー海戦で大敗北。
 43年4月1日飛行機で前線に向かう途中、日本軍の暗号を解読したアメリカ軍の戦闘機に襲われ戦死。
 同年6月国葬がおこなわれた。(元帥位を追贈)
この年8月、工専2年の夏休に私は同級のS君と一緒に新潟県長岡市の工場実習(津上安宅製作所)に行ったがこの際、同市内にあった山本元帥の生家に案内されたことがある。(写真はこのときのもの)
 この生家は、大戦末期の空爆で焼失したとのことで、現在この地に「山本五十六記念館」が建てられているとのことである。





 アリゾナ記念館
 1941年12月8日、日本海軍が真珠湾に停泊中のアリゾナおはじめとする米太平洋主力戦艦に奇襲作戦を行い壊滅的な打撃を与えて太平洋戦争の火蓋を切った歴史的な場所。この海底に今でも眠る「戦艦アリゾナ」を跨≪またがえる)ように浮かぶ「アリゾナ記念館」がある。
(11年前の1月、ハワイ観光ツアーで真珠湾を訪れたが、近くの潜水艦からに真珠湾の水中鑑賞にいった。)






  


Posted by jiiyasan at 13:40Comments(2)