2010年12月26日

回顧 (1945-⑤)

  
今年もあと僅か。恒例の今年の漢字が「暑」と決まりましたね。100年以上ぶりと言われた記録的な今年の猛「暑」とともに、今年もなにかと話題の多かった年でもありましたよね。。

                   
 【終戦記念日】 
 今年は終戦65年の節目の(正確には「敗戦」と呼ぶべきだが)年にあたり、8月15日の記念日には政府主催の戦没者追悼式典が多くの遺族らが参列して行なわれ、また、この日を回顧した新聞やテレビなどで悲惨な兵士たちの特集記事や若くして散っていった特攻隊員のこと、戦争や空襲などの体験した話、その他悲惨な国民の生活の回顧ど・・・。などが連日報道されていたが、、私たちの年代にとってどんな評価が下されただろうか。

 【予備学生】 65年前のこの日、私は横須賀の海軍機関学校に入校し、第6期「海軍予備学生」として促成の海軍士官の基礎訓練をうけていた。3月に入校して以来5か月余がたちほぼ基礎訓練を終えて、近く配属先がきまる時期がになっていたが、終戦により私たち全員は予備学生を罷免され、同月21日に帰郷を命ぜられた。
 (したがって私には、経歴上は軍隊の経験がないことになっている。)

 、この短期間期間であったが、この間に受けた厳しい海軍教育は私のその後の人生観に大きな影響を受けたと自負している。このことは、機会を見て書きたいと思っている。、

 【訓練】 もともと私の志望は、技術系の予備学生を希望していたが、同日入隊した約500名の中から選抜されて前記の機関学校入校となったもので、同期性生100名全員が旧制工専の機械、電気などの理工系卒業者で(大卒4名もあった)で構成されたものであり、どのような基準で選抜されたか、何の担当になるなどの説明等かなんらなく何もわからないままに訓練をうけた。

 訓練は海軍士官として必要な座学と体力向上のための実地訓練で手旗信号、モールス信号をはじめ海軍体操、カッター、棒倒し競技、遠泳、相撲、銃剣術など・・・・・中身のの厳しい訓練であった。中でもきつかったのは駆け足訓練(今ではマラソンという)であった。
 朝6時の「総員起こし」から夜10時の「巡検」まで休憩などなく、そしてすべてが団体訓練の連続で、僅かに夕食後の「煙草盆出せ」と号令後の[休憩時間)だけが自由時間という生活。

メモ】 以下の記事は、終戦が決まったのち、個人貸与の教科書や私物のノートなどを全て焼却するよう命ぜられ、密の毎日記していた日記なども全部焼却してしまったため、薄れた記憶をたどって書いたもので日時等は不正確である

 特殊潜航艇「海龍」
 入校してから3か月ぐらい経った頃に、教官から私たちは特殊潜航艇「海龍」に乗船予定であると告知された。
 日米開戦時に日本軍が真珠湾(ハワイ)攻撃した際に爆撃機のほかに特殊潜航艇5隻(当時海軍内では「甲標的」と呼ばれていた)が参加してハワイ湾に進入したということを教官から聞いて知ったが、沖縄での日本軍の敗戦(6月中ごろ)が決まり、次の本土決戦となると予測しこれに使われる予定で、日本海軍が本土決戦用として建造中の兵器だとの説明があり私たちはこれに搭乗することになっているとのことであった。

 このころには。我々でも日本の敗戦が濃厚になったと思っていたが(我々は士官待遇というので機密の回覧文書が閲覧できた)、一般国民に対しては最後には日本が勝利すると信じさせており、この決戦用として(今風にいえば一打逆転用をねらい。航空機による特別攻撃によるがおこなわれ戦果あげていると発表しつずけていたのだ。


 「海龍」は長さ17m余、胴回り(太さ1,5m)の2人乗りの潜航艇で、「甲標的」やその後行われた「回天」などは積載母艦から発進したものであったが「海龍」は日本沿岸に造られた基地から自力発進するもので、飛行機のような両翼をもち自由に潜航、浮上ができるような構造となっており、、また魚雷2本を両脇に抱えて、魚雷発射後は基地に帰還することなるなどとの説明があった。
(写真は呉市の大和Mに展示されているものである)
 
 しばらくしてから、米軍のたびたびの空爆で「海龍」の魚雷が製造できなくなったと教官の説明があり、このため艇前部に爆薬を装着し目標物(当初の戦艦攻撃から輸送艦に変更)に体当たりをするのだとの説明をうけた。


【生と死】 この結果、私たちは「海龍」で出撃していれば100%生還できないこととなったのだが、当時は特別に何の感覚も起こらなかった。いまから考えると不思議であった。、それだけ、私たちは軍時教育の中で教育を受けてきた結果であってのだろうとおもう。むしろ敗戦後の食糧難、就職難などのみじめな暮らしは今の人にはわからないだろうとおもう。
 あとは機会があれば書いてみたいと思っている。 












 
 












 
  


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2010年04月06日

桜トンネル(河西公園)

 ここ2-3日来の陽気で近くの河西公園の桜が満開となり、はや散り初める桜も見られる頃となりました。
広い公園のあちこちに、平日(4月6日)というのに家族連れの花見客が弁当を広げていました。





花見鳩 
私たちも近所の人たちと花見弁当を広げていたところに、どこからともなく2羽の鳩(つがいでしょうね)が飛来し仲間入りしてくれました。




 ひらめく大漁旗
 公園に隣接する西脇漁港には明日(4月7日)の「漁祭り」恒例の餅投げの櫓(やぐら)が組まれていました。
 あすは漁港一帯に漁師さんの威勢のよいかけ声が響き、また、大勢の人々が詰めかけることでしょう。
好天を祈ります。


  


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2010年04月03日

満開(粉河寺)

 例年より早く開花宣言があったが、その後の不安定な天候での伸び伸びなっていた桜もやっと満開に。 
知人の案内で粉河や桃山に花見に行って来ました、
 やはり絵になるのは粉河寺の桜(写真)でした。
   



 この日(4月1日)も天候も良くなく、また平日ということでいたって閑散。
今年は夜桜見物も人出がなく出見の屋台もさっぱりという。
 この週末の好天に期待するのみということである。
  
  




 桃山町(旧)の桃畑も花盛りを終わっていました。
 
    


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2010年03月08日

壁 画

 3月初め、磯の浦海水浴場の防潮堤に近くの西脇小学校6年生が卒業記念制作の「壁画」を描きました。

  



 テーマは「海」
 この防潮堤は約40年前に建造されたものですので、古い汚れや凹凸面をきれいに取り去ったうえ6年生(約90人)が長時間かけてペンキで書き上げた力作です。
 
 画面には、イカ、タコ、ハリセンボンなどたくさんの魚のはか、住金に入港待ちのため停泊している貨物運搬船や西脇漁港に出入りする漁船をはじめ、サーファーなども描かれています。

 



 「思い出をみんなで
 市立西脇小学校は創立134年という歴史のある学校であるが、現在はわずかに校門サイドに残る赤煉瓦(レンガ)塀がその面影を残しているに過ぎない。
この赤レンガ塀に代って造られたブロック塀」で補修されたが、この塀に3年ほど前から卒業生が「壁画」を記念制作している。

 この壁画のテーマは6年生達と担任の先生が相談して決めるとのことで、2008年度の卒業生は同小学校の先輩「湯元健一選手」(レスリング銅メダルを獲得)活躍した北京オリンピックが選ばれて描かれています。
 
   


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2010年02月27日

回顧(1945-④)

 昭和20年の終戦年1~2月ごろ、一般市民は、まだまだ戦戦況のきびしさがさほど差し迫った状況ではなかった。時々、米軍のB29が上空を飛来しその都度防空警報が鳴らされ、従業員が工場の空き地に造られた防空壕に退避させられた程度で、さほど戦況が切迫しているとの実感が乏しかったようだった。(勿論、当時の軍による報道管制が異常だとは感じてはいても口にすることはできなかったが・・・) 
 
 晴れた上空の高高度を飛行したB29の機影がキラキラと雲間に光った時に、これを見た女子従業員が「キレイやわ・・」など歓声を挙げたのを上司に聞き咎められたていたことなどもあった。
  (写真はプラモです)

 
 満64年前の昭和20年(2945)2月27日 通知を受けていた神奈川県厚木海軍航空隊に入隊すべく、私は友人H君と大阪駅から東京行きの夜行列車に乗り込み上京した。
 地理に不案内な2人はとりあえず一旦東京に出て、厚木に近い所に一泊する予定で上京したものだが、田舎者の2人はどこでも簡単に泊まれるだろう思い出発したものであった。

 【機銃掃射】
 翌28日朝、熱海のトンネルを抜けて間もなく車内放送があり「米軍艦載機グラマン」から同車が機銃掃射を受けているので、「窓のブラインドを引いて床に伏せるよう」との指示があり乗客全員がその指示に従い臥床した。 
 しかし列車は停車することもなく予定どうり東京駅に着いたが、窓越しに2,3機のグラマンの飛影が見えたものの、特別に恐怖感も持たなかった。




 2月28日昼前に東京駅に着いた2人はどこ行く目的もなく、皇居前や日比谷公園あたりをぶらついた後、新宿から小田急線に乗った。 小田原にゆけば宿泊できるだろうと乗車したが、、どちらが言い出したかは記憶にないが途中の駅に「鶴巻温泉」という駅があることを知り、「温泉にでも浸つて1泊」をという甘い考えで名前にひかれ途中下車した。
 ところが、この旅館街はいづこも陸軍の傷病兵用の療養所になっておりで一般人は宿泊不可とわかり、やむなく小田原に向かうべく同駅で電車をまったものの、たまたま降り出した大雪のため電車は不通。
 なすすべもなく長時間待ちしやっと夜11時ごろ小田原に来たものが,いずれの旅館も満員。やっと大きな宿に頼み込んで廊下で一夜を過ごさせてもらい、3月1日朝膝がしら近くまで積った雪の中を踏みしめてやっと入隊した。



 【H君とのこと】
 H君は同期入社19名の中の一人で実家は同じ和歌山市内であったが、中学、高工とも別校で、入社決定したのちの夏期実習(昭和19年8月)に入寮した独身寮が初対面。入社後の配属先も同じ製造部であり、誰にでも好かれる好人物。
 偶然にも同じ航空隊に入隊することがわかり、すべて彼の世話になったもの。
 
 戦後、彼と私は同日に退社したのちは無職で過ごしていたところ、翌年6月彼の紹介で本町に新設中の鉄工所に入所できたことなど。いろいろと長年お付き合いをしてもらったが、3年前に病をえてお別れしたわが親友の一人だった。
  (写真は、桃の節句を控えてきょう活けられた我が家の生け花です)


  
  


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2010年02月11日

足踏みする春
 今年の異常気象でなかなか春が遠いよう。
今は花が最も少ない季節で近所の梅を撮りました。

 

今日は立春から1週間。我が家の庭の梅がやっと開花してきました。
 この梅は60年ほど前に近所からゆずり受けて植えたもの。毎年剪定をして切り込んでいるため
当時の姿のままの大きさです
 樹齢はおそらく100年以上ではと推定しています。





 

 最近、新しい家の門の両サイドに大きな紅梅を植えている家を見かけました、
この梅の木はは、わざと切り込まず大きく伸ばしているのでしょうね。
紅(右)とピンク(左)の対照が鮮やか。




 
 蠟梅(ろうばい

1月中頃にから最近まで近所の蠟梅が独特の香気を放ち
 
蝋細工のような光沢をもちひっそりと咲いていました。


  


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2010年01月01日

賀 正

  
【寅年】
新年おめでとうございます。我が家の「虎」が新年のご挨拶です。
 
プロフィール
 私がこの家に来たのいつだったか忘れられましたが、多分三十数年前のバンコック観光の際、連れられてきたようです。

 体長約63センチ、高さ約28センチ、重さ5キロ弱の木製です。風貌はともかく見た目より重くて、東南アジアに多い「チーク」製ではないかと思われています。

 床間に置くのは大きい過ぎるので12年に一度に干支の正月に引き出されます。


ことわざ、格言など

いかつい風貌を備えた私だけに、数多くの諺や、格言、慣用句がたくさんありますね。

「騎虎の勢い」 
「虎穴をいらざれば、虎子を得ず」
「虎視眈眈」
「前門の虎、後門の狼」
「竜虎相撃つ」
「トラは一日に千里を走る」など・・・・。
 
 丑年の昨年は不景気でしたが、証券業界では
    
  「丑つまずき、寅千里を走り、卯はねる」

との格言があるそう。
 
 この格言の通り「寅年」に期待するとともに、今年こそは「阪神タイガース」が大躍進をすることを期待したい。


  


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2009年12月19日

師走


  絵馬 
 何かと話題の多かった丑年も残り僅か。
新しい干支(寅)に願をこめて、今年も中学生が制作した絵馬が射矢頭八幡神社に奉納されました。
 景気回復を祈る人、一家のを健康を願う人、阪神タイガースの優勝を祈願し・・・・新しい年への希望をこめて建てられました。
 今年で3回目とのこと。




  新漢字
 世相を漢字1文字で表す「今年の漢字」は去る12月11日に「新」と決まり京都清水寺で同寺監主による「揮ごう」が披露されましました。
 米国「新大統領」や日本の「新首相」の誕生、「新型インフル」や、スポーツでの「イチロウの新記録」石川選手のゴルフの最年少賞金王の新記録などの「新」のつく話題に溢れた1年でした。



 
 山茶花
 一転して北国に引っ越したような急激な最近の冷え込み。気象に敏感な植物たちは毎年より早く開花、早くも散り果てた山茶花。(絵は1週間前のもの)  


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2009年12月11日

ドバイ

 最近の急激な円高、株安・・・・・「ドバイショック」といわれる金融不安が引き金になったという。 私はこのドバイに2000年4月に観光に行ったことがあります。そのときの写真がありました(当時バカチョンカメラでとった写真)のでスキャンしました。
 約10年近い間の同地の変貌ぶりは、テレビ等で見て驚くこのごろ。

 アラビアンタワー】 ドバイを象徴するこの建物「アラビアンタワー」は高さ321㍍で総金張り。このタワーは7つ星をもつ「ラクジュアル・ホテル」の建物で、世界一最も高いホテルで、宿泊料金もまた世界最高の1泊2~300万円(当時)とか、もちろん一般人は立ち入はできません。(写真はツアーガイドより)
 
 【UAE:アラブ首長国連邦
 ドバイはアラビア湾入り口のあるUAE(7つの首長国で構成される連邦国で、38年前にイギリスから独立した歴史の若い国家)は、首都のアブダビは日本にとって最大の原油供給国であるが、ドバイはここ数年原油資源が枯渇してきたので世界一の観光国家をめざして投資し、大規模な埋め立てや巨大ビル群などを建設中で話題になって来たところ。
 
 【メモ】 
 UAEの国土は北海道ぐらいの広さで、総人口は300万位とか。このうちの9割近い人は隣接の中東諸国やインド、パキスタン等のアジアなどからの労働者が占めているという。残りの約1割くらいの人が純粋のUAEの人といわれ、これらの人たちは王様や王族やこれらにつながる人達が占めているいわれています。

 この国は亜熱帯性乾燥地帯で1年を通じ雨が全然降らず、夏(5~10月)には50℃になることもあるという。宗教は戒律の厳しいイスラム教で、特に女性は外出時に肌、髪を見せないようとか、1日に5度の礼拝等々が守られています。
 また、アルコール類は禁止、豚肉やその製品の食事は駄目、などは守られている。また、王さまの意向でペット(犬や猫など)の家庭での飼育は禁止で街は美しい。
街には全然みかけず



 
 「ラクダ
 EAEといえば「ラクダ」、「ラクダ」といえばUSE。牧場も沢産あり、冬季には{ラクダ・レース}もあるらしい。近くに行くとラクダの脊が高いのでびっくり。試乗体験もさせてもらいましたが・・・。 
 「ラクダは休憩なしで約18時間も歩くことができるとのことで、砂漠の多いこの地では非常に利用価値の大きな存在でしたが、最近では4WDが増加いてラクダにかわってきているので、「ラクダが楽」になったという。  


 
 「砂漠ラリー」
 写真のように4WD(日本車)による「砂漠ラリー」を体験しました。ラリーの体験できる砂丘は、「オアシス」に行く途中にあり、入り口にある給油所でタイヤの空気圧を抜いてから進入し砂漠の急斜面をアップダウンするのでスリル満点でたいていの人は悲鳴や歓声をあげます。
 ラリーが終わった後は、「オアシス」に案内されて「砂漠の夕日」を眺めながらの、「オアシス」付近で
のバーべキューとなりますが、アルコール類は禁制です




金市場】
 博物館、水族館など見ものはありますが、この国だけの「金市場(ゴールド・スーク)」には驚きました。ゴールド、スークには金(18・23.24金など)製品が所狭しと軒を連ねる市場で、すべて量り売りで、そ日の相場にデザイン料がプラスしたものとのこと。ガイドさんによると必ず何軒かチェックして根気よく交渉すると2割引ぐらいひいてくれるとのこと。この金の産地は南アフリカらしいが安いか高いかわかりませんが有名なスークです。









  


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2009年11月25日

晩秋


  
 深まる秋
 秋祭り、運動会、園芸会、カラオケ大会・・・・ETC。恒例の秋の行事も終えて近くの神社に七五三(11月15日)の「のぼり」がかかり、今年も「晩秋」の季節に入りましたね。
 これから本格的な冬もそこまで近寄り、暖冬の予報が的中すように願うこのごろです。






 「誰もいない海」 
 
 今はもう秋 誰もいない海
 知らん顔して 人が通りすぎても
 私はわすれない 海に約束したから
 つらくても つらくても
 死にはしないと 

 今はもう秋、何もない海
 たった一つの夢が敗れても
 私は忘れない 砂に約束したから
 淋しくても 淋しくても
 死にはしないと 
         (以下略)
     
 40年程前に「トワ・エ・モア」が歌ってヒットしたこの曲、この歌声にぴったりの風景。今年植えらた「パーム」が夕陽とのコントラストに映え、夏場の喧噪がウソのような静か海辺のなたたずまい(11月中旬の「磯ノ浦海水浴場」)です。
 




 黄 葉 
 近くの河西公園もひっそりとしたたたずまい。この公園には桜並木の黄葉のほかには見るべきものがなく朝のウォーキング以外に訪れる人はなく閑散としています。
 来年春のサクラが待たれるこのごろです。 
  


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2009年08月30日

回顧(1945ー③)

 私の1945年(昭和20年) 

 
 私達の年代にとって1945年(昭和20年)はそれぞれの思い出が沢山あるとおもいます。
最近この前後40年間の出来事などを纏めた「昭和史」を回顧する刊行物が発刊されているのが時々みかけます。
 
 私の昭和20年は
 ①1~2月  会社勤務(住金和歌山) 
 ②3~8月 海軍予備学生(横須賀大楠機関学校)
 ③9~12月 無職の時代

という激動の青春時代。現在のような恵まれた時代では想像ができないことばかり、改めてこの時代の経験について書いてみたいと考えました。 

 ①昭和19年10月から5ヶ月間の勤務であったが、当時若者が軍隊に取られ女子職員や女子挺身隊(勤労奉仕)がたくさん。学卒者の私達は大事にされた。そんなことで2月末に女子職員の計画で市内(気象台付近の料理店で送別会を催してもらった。

 因みにわたしの初任給は月70円であった。理工系大卒のは95円、また文系大卒で75円だったようだ。
 
 ②海軍予備学生時代の回顧は次回以降にゆずる。 
 



 ③失業の時代 
 昭和20年8月連合国軍最高司令官D、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、いよいよ日本が歴史上始めて占領時代にはいった。(この6カ月前の3月1日に私の入隊したのは厚木基地)
 
 マ司令官の来日前に米軍から京浜地帯の軍の解体を命ぜられ、私は終戦1週間後の8月22日に超満員の復員列車に揺られ2昼夜をかけて帰郷した。
 

 「配給制度」
物資の少ないわが国は、昭和15年(砂糖、マッチ)から始まった配給制度は逐年拡充され,米、味噌、醤油は勿論のこと生活必需品のほとんどが規制の対象となった。 
 当時の合言葉の一つに「ほしがりません勝つまでは」・・・。「神の国日本」は絶対負けることはない」など『やがて神風が吹いて勝利する」など今から考えると子供じみたことをいわれ、配給などに苦情を言うなどすると非国民扱いをされたものでした。

 「闇市」
戦後、一番速くできたのは「闇市」でした。配給品の遅配・欠配が当たり前になり衣食住の窮乏の中で和歌山市駅とJR和歌山駅に当時は東和歌山といわれた)周辺に青空市場が出現し、やがて焼け残りのトタンや材木でバラック小屋がたちならび「闇市」と呼ばれる商店街ができた。配給品や米軍などの横流し品がならびスイトンやドブロク焼酎など「ナンデモアリ」の市場には、腹ペコの市民の市場だった。

また、これらの商品を買い集めて卸をする「ヤミヤ」といわれた商売人も沢山いたのもこの頃だった。
 (写真はいづれも当時の面影をとどめていない最近のもの)
  


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2009年08月06日

真珠湾

 パール・ハーバー(真珠湾)      
    
 真珠湾のアリゾナ記念館に、山本五十六の肖像画がある。米国が決して忘れない攻撃を指揮したにもかからず、<人望ある艦長にして卓越した戦略家。合衆国との戦争に反対していた>と、説明書きは意外に好意だ。◆責務を全うした軍人、というのがヤマモト評らしい。故郷・新潟県長岡市の訪問団が昨年秋、真珠湾の戦死者に花輪を捧げた際一行は米側から棘(トゲ)のある言葉を聞くことも覚悟していたそうだが、杞憂に終わった◆長岡も終戦直前の空爆で焦土と化している。山本の故郷ゆえに標的にされたとの説もあるが、定かではない。いずれにせよ、真珠湾で山本個人への悪感情に出会わなかった訪問団は確信した。あの戦禍繰り返すまい、と訴えるのに長岡とホノルルほどふさわしい組み合わせはない、と◆山下清も張り絵で描いた長岡の花火は毎年、戦争犠牲者を悼んで打ちあげられてきた。これを真珠湾でもみてもらいたい、との夢が膨らみつつある◆今日信濃川河川敷の花火会場を訪れ、その迫力を堪能する予定だ。長岡の三尺玉が真珠湾を彩る日は遠くないかも知れない。

(この記事はさる8月2日付けの読売新聞の「編集手帳」の記事全文です。)
 



 山本五十六元帥の生家
 旧日本海軍の名将山本五十六大将は、駐米武官などの経験から米国と日本の圧倒的な国力差を感じていた。昭和11年2月海軍次官に就任した時、米内大臣や井上事務局長などとともに日独伊三国などに反対し、また日米開戦に反対していたことでも有名。
 その意に反して1939年海軍連合艦隊指令長官に指名され就任。真珠湾攻撃の航空機を使った奇襲作戦をたてた。当時
 「アメリカとどうしても言われれば、はじめの半年間はなんとかなるが2,3年と長引けば勝てる自信はありません。」と言って日米開戦に反対。真珠湾攻撃には成功したが、翌年ミッドウエー海戦で大敗北。
 43年4月1日飛行機で前線に向かう途中、日本軍の暗号を解読したアメリカ軍の戦闘機に襲われ戦死。
 同年6月国葬がおこなわれた。(元帥位を追贈)
この年8月、工専2年の夏休に私は同級のS君と一緒に新潟県長岡市の工場実習(津上安宅製作所)に行ったがこの際、同市内にあった山本元帥の生家に案内されたことがある。(写真はこのときのもの)
 この生家は、大戦末期の空爆で焼失したとのことで、現在この地に「山本五十六記念館」が建てられているとのことである。





 アリゾナ記念館
 1941年12月8日、日本海軍が真珠湾に停泊中のアリゾナおはじめとする米太平洋主力戦艦に奇襲作戦を行い壊滅的な打撃を与えて太平洋戦争の火蓋を切った歴史的な場所。この海底に今でも眠る「戦艦アリゾナ」を跨≪またがえる)ように浮かぶ「アリゾナ記念館」がある。
(11年前の1月、ハワイ観光ツアーで真珠湾を訪れたが、近くの潜水艦からに真珠湾の水中鑑賞にいった。)






  


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2009年07月16日

湊神社

 

湊神社(和歌山) 
 【所在地】和歌山市湊2丁目18
 【祭神】 天照大神ほか
 この神社は、住友金属和歌山工場が当時の湊村に進出が決まり、昭和12年(1937)に建設予定の敷地内にあった「豊海社」など6社祠を合祀した神社である。
 周辺は旧湊村から移住した人達の住宅のほか、住金関係の会社事務所などが多い。



                境内には大小2対の駒獅子(1対は小さいが古いもの)と最近に氏子から寄進された石碑のほかには、他の神社のような摂社などはないようだ。


 
 また、年中の例祭や由緒などの掲示等は見あたりません。
 わずかに大鳥居脇の掲示板に、今夏の行事予定(7月22、23日の夏季例祭と夏祭りの「お知らせ」の張り紙がありました。
 写真は閑散とした住金東の大通りです(魚釣公園に通じている)





  


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2009年07月03日

夏が来る

           
 「夏越跋」(なごしのはらえ)
 近くの神社に「茅の輪」が取り付けられていました。(6月30日射矢頭八幡神社)
 毎年6月晦日にこの半年の罪の穢れを祓い、この夏以降の疾病を祈願する神事で、近くの住民の方々が集まり「茅の輪くぐり」をしたうえ宮司さんから「おはらい」をうけます。
 この神事を終えると翌7月1日には「海開き」の神事があり梅雨明けとともに海水浴場がオープンして暑い夏を迎えます。

 「茅の輪くぐり」(ちのわくぐり)」
 「」(かや、ち)は昔は屋根葺きにも使われた植物で、日本各地の河川などに群生していたものだが、最近では遠方まで出かけないと良い「かや」が少なくなったとの宮司さんのお話でした。

 

 
 大賀蓮       
  浄土真宗本願寺派「安楽寺」の本堂前に新任の御住職が「大賀蓮」を咲かせました。今年からお墓参りの檀家さんの眼を楽しませています。
 直径1メトル以上もある植木鉢には6月下旬から鮮やかなピンク色の4輪の蕾が順次開花しており現在2輪目が開花中です。住職さんに聞きましたところ、4月はじめに近くのお寺さんから、「株分け」してもらったものだとのことです。



 
  「大賀蓮」
昭和26年(1951)に千葉市でおよそ二千年程前の地層から発見された蓮の種子3個のうちの1個の発芽に成功したとのニュウスに、古代ロマンに満ちた「蓮」が話題となりましたが、この蓮を発見された大賀博士の名に因んで「大賀蓮」と名付けられらました。
 この蓮は、最も美しく鑑賞できるのは早朝からご午前9時ごろまでで、その後は花びらをとじます。
また、開花するときに耳を澄ますと「ポン」という音がするといわれていますが、開花閉花を3~4回くりかえすと花弁が散ってゆくとのこと。


  


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2009年06月24日

回顧『1945-②)

 海軍予備学生
 
 「第6期一般兵科(特別整備班附)海軍予備学生を命ず 横須賀市大楠海軍機関学校に入校を命ず

 昭和20年(1945)3月1日私は指定された神奈川県厚木海軍航空隊に入隊した後、身体検査を受け上記のような命令により翌2日同期生100名とともに大楠海軍機関学校に入校した。その後8月15日の終戦までの5ヶ月半の短期間ではあったが海軍士官としての基礎訓練をうけました。同期生は大学卒4名をふくめ全員工専理工系の100名であった。
 
 (写真は入校時に支給されていた軍装品で持帰りが許された中の一つ。海軍軍人を象徴する短剣も物資不足のために刀身は木に銀紙を巻いたいわゆる「竹光」です。)




 1934年に制定されたというこの制度は、正規の海軍士官の養成学校であった海軍兵学校(広島・江田島)が3年間の養成期間が必要であったが、この補充のために設けた制度であり、短期間(1年間)に海軍士官を養成する制度であった。
 
 当初は海軍航空予備学生と呼ばれ飛行予備士官の養成が目的だったとのことだが4年後には整備科が新設、大学工学部
や旧制工専の卒業者を対象として募集、その後一般兵科(陸戦、対空、対潜、通信など)の養成、募集が行なわれたという。
 
 作家で有名な「阿川弘之」さんは第二期予備士官(通信)になられ、中国で中尉で終戦を迎えられたと自伝に書かれている。


【海軍志望のこと】
 多くの海軍予備学生志望者がそうであったように、私もなんとなく陸軍が嫌いで「どうせ兵隊に行くなら海軍へ」という単純な重い込みが強かった。特に中学に在学中、年々強まる軍事教練の教官(予備役陸軍下士官)がなんとなく尊大な態度を撮るように感じられ、これ対するの反発心を持っていたのは私だけではなかったように思います。
 (入校後、はじめての上陸(外出)許可の日近くの写真館で撮ったもの。薫刀は撮影用の借り物)



 
 まず早く娑婆気を抜くように言われ言葉づかいから指導される。「あんた」「君」や「私」「わたくし」などは禁句、「貴様」{俺」に、、そして校内の移動はすべて「駆け足」に、のぼり階段は一段とばしで、逆にくだり階段は1段づつで降りると指導。
 「総員おこし」がら「巡検終わり」まで分刻みの日課だった。勿論{鉄拳」は数十度いただいたが・・・・。
 また、私達の在校していた「大楠機関学校」は新設したばかりのようで、寝所は「ハンモック」ではなく2段ベッド>であった。

夾竹桃
この夾竹桃は近くのスーパーに毎年夏中咲いているもので、高さ5メートル位の大きなこの木の確かな樹齢は知りませんが毎年夏中には咲きます。(09-06-19撮影)






  


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2009年06月10日

回顧(1945ー①)

 徴集猶予 
 昭和19年(1944)9月繰り上げ卒業して翌10月1日に近くに建設中の住金和歌山に入社することができた。
同時入社の23名のうち大学卒3名で残余の20名全員が旧制工専卒であった。このうち8名の海軍入隊予定者をのぞく全員が1日も勤務することなく陸軍に入隊させられた。
 
海軍(技術将校と予備学生)へ採用者は徴集猶予の扱いを受け翌年3月に海軍に入隊となった。この措置を受けたのは同工場が海軍の軍需工場に指定されていたからだ。
  (写真は私が通学した神戸の学校正門。昭和20年3月の神戸大空襲によって焼失した)

海軍には20年3月から終戦までの5ヶ月半でこの間の身分は学生で、正式には兵役に服したことになっていない。
 (この記事は次回に記したい。)





 住金和歌山
①昭和15年2月和歌山県が住金誘致のため、当時の湊村外浜地区等の地主715名が持っていた住宅と土地、農地等の売買交渉をし(住宅は立ち退き)工場用地130万坪を造成し和歌山製鉄所の建設をはじめた。(写真は6月7日写した住金の遠景)

 ② 昭和17年に操業を始めた同工場は、当時は高炉を持たない所謂「平炉メーカー」であったが、私が配属された鋼管部には新鋭のドイツ製継ぎ目なし鋼管(シームレスパイプ)の製造工場などを持つ「鋼管部」であった。
 (この年の夏休みの20日間就職予定愁の前記23名全員が近くの独身寮に入れられ工場実習をした。私は前記の製缶工場で 実習をしたので全員が顔見知りであった。)

 ③工場うには若い人がすくなくなり、女子従業員や女子挺身隊などのはか、軍用徴用工などが沢山はたらいていた。戦時中どこの工場でも若者が軍に取られどこも従業員不足となったが、これを補うため軍人として出征できない体の人が軍需工場に「徴用工」として働らかされた。、

 ④私が住金勤務中(19年10月~20年2月)には米軍空襲をうけなかったが、数度偵察飛行と思われるB29が京阪方面から飛来し、そのつど防空壕に退避した。B29が成層圏を飛行機雲を引きながら悠然と飛行しているのを見た女子従業員が思わず「きれい」ともらしたことがあり、上司から怒られていたのを思い出す。



米軍上陸 
 終戦から40日後の9月25日、米軍進駐軍が和歌浦湾や二里ヶ浜海岸一帯に上陸した。その数7000~8000名といわれた米軍の戦車、弾薬などが」上陸用舟艇などで揚陸した。同時に揚陸した食料品などを見てその膨大な物量を目の当たりに驚かされた。
 なんでも大阪、神戸などの港湾の掃海作業が完了していないために和歌山に上陸したという。

上陸した米軍は陸路で京阪神に進駐したが、一部の米兵は焼け野原の鼠島(現在の築港地区)一帯にキャンプを張り、また焼け残りの旅館の一部が将校宿舎に接収された。

夜になると我が家の近くの海上の米軍艦船が点灯し、不夜城の様相を呈しとなったが、おびただしい艦船や豊富な物量に驚かされたものだった。しばらくしてから役場からの通知により、住金倉庫の運びいれた米軍物資の整理のために2、3回使役に狩りだされた
 (写真は再建51年の新緑にはえる和歌山城)




 


  


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2009年05月26日

回顧(動員など)

 
 勤労奉仕(1ヶ月)
 日米開戦後の日本は、国民の日常生活は日増しに苦しくなるなか、耐乏生活を余儀なくされたが、若人が戦線に借り出された結果、工場の人手不足を補うため学生が男女を問わず勤労動員された。

 昭和18年(2年生)の夏休みには、私はS君と2人で新潟県長岡市の津上安宅製作所に工場実習に行ったが、帰ると直ぐの9月の1ヶ月間、私達クラスの全員(80名)が川西航空機武庫川工場に動員された。 工場近くの独身寮に入居させられ通勤したが、仕事は単純なものであった。
 
 当時、同工場は日本で唯一の海軍飛行艇の生産工場であったが、高等小学校を卒業したばかりの養成工ばかりが目立ち熟練工がすくなかった。


 勤労奉仕(4月間) 
 翌昭和19年3学期の1月4日から4月23日までの約4ヶ月間、今度は明石市の川西機機械製作所大久保工場(現NEC明石工場)に「電波報国隊」と組織され動員になった。
  
 宿舎は建てたばかりの会社の社宅に分宿、名簿順に4名づつが入居した。、宿舎にはカーキ色の作業服がわりの「女子用モンペ」がおかれており、全員これで通勤した。
宿舎に戻っても当時は何の娯楽施設もない無味感想の生活であり、自然と気の合う仲間同士の入居が行われ表札と異なる入居となり教師をあわてさせた。
 
 また長期の動員予定であり、当初は夜に授業の補習などが計画されていたものの職場で勤務時間などがことなりうまくできずに取りやめとなった。

(写真は、長い動員を終えて学校生活に戻った際に前記の工場からひきあげた際に撮られたもの。4月末にもかかわらず全員外套姿で、校則で定められた戦闘帽ではなく違反のアンパン帽子をかぶっている。反軍国主義へのささやかな抵抗のあらわれだった。)



 動員期間中の食事は三食とも工場の食堂で取れたが、なんといっても育ち盛りの年頃。残業のときに誰かが手に入れてきた「オカラ」を真赤に焼けたブリキ製の石炭ストーブの煙突に貼り付けて焼いて食ったり、また、同室のN君が休みに奈良の実家に帰って持ってきてくれた「クズ湯」を食べさせてもらったときの旨かったことなど、忘れられない。

 神戸は、三宮、元町の瀟洒なまちと、庶民に親しまれた「新開地」があり下宿から近いこともあってよく遊びに行ったが 当時の娯楽といっても映画を見る程度。三宮のガード下の洋画と新開地のシンボル「聚楽館」に行ったもの。
 (写真は当時の神戸新開地)
 
   


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2009年05月18日

回顧(1944)

 
 【引き下げ
 第二次大戦の戦況は、軍発表では「転進」「玉砕」などと伝えられてはいたものの、なんとなく形勢が良くないようだと感じ始めたこの時期だった。、

 私達に直接影響をもたらしたのは「徴兵制度の変更」であった。
当時の日本男子は、国民皆兵制度で満20歳になると徴兵検査を受ける義務が課せられていた。
ところが、戦況悪化に伴い昭和18年末に「徴兵適齢が一年引き下げ」られ「満19歳」になった。

 このため私は19歳(昭和19年の夏)に徴兵検査を受けて「甲種合格」となった。(因みに検査の結果は甲、乙,丙、丁とのランク分けされ丁種以外は徴兵の対象となった。私は予備学生に採用が決定したので、陸軍には入隊しなかった。)
 

   【繰り上げ】
 私は、神戸工専(旧制高工)を昭和20年3月に(1945)に卒業予定であったが、前年の文科系の大学などの徴集猶予措置の廃止につづいて、私達の理工系も6ヶ月の「繰上げ卒業」となり、多くの同級生が卒業と同時に徴兵となった。

 また、この年の1月4日~4月23日までの4ヶ月間、私どもは勤労動員となりで明石市大久保にあった川西機械kkに動員され(学業放棄)しており、結局2年間しか勉学できなかったしなかった。今から考えると散々な学生生活であり青春時代であった。

 「幸運」
上記のように、昭和19年は徴兵適齢の切り下げや、繰上げ卒業などで私達の年代の大半の人ははあまり良い思い出がなかった中で、、私は恵まれた方だったと思っている。(ご苦労された方に申し訳ないが・・・)

 私は幸運にも家から近くの和歌山に「住友」(和歌山)に就職でき、翌20年3月まで会社勤めをした。
短期間であったが、たまたま同工場が「海軍指定の軍需工場」であったために、海軍に行くこととなtっていたために徴集猶予()5ヶ月)となった。
 同工場に就職した同期生のうち半数は陸軍へ行ったが、中には外地に派遣されたものもあり、敗戦とともに抑留生活を余儀なくされご苦労をされた人もあったった。
 
 【海軍】 軍事色の濃かった中学時代ではあったが、なんとなく格好よく見えた海軍に運よく予備学生として行ったことは当時としてはあまり有難いとはおもわなっかたが、結果的に運のよかった方だった。
 

 「ばら色」
 バラ色とは何いろなのでしょうか。
幸福・喜び・希望などに満ちた状態のことらしいが、わが人生にそんな状態になったことがなっかたように思います。

よく聞く「ばら色の人生」には無縁の青春でした。





 
 
 

  


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2009年05月04日

護国神社

 
    和歌山縣護国神社(本殿)
 護国神社は、各県に設立されている神社で、それぞれの府県出身の戦死者などを祀る神社である。
和歌山県護国神社は戊辰の役(明治元年に日本各地で起こった新政府軍と旧幕府軍との戦いの総称)以降の戦争でなくなった3万6千余の”みたま”をまつる。

招魂神社
 護国神社の前身は「招魂社」と呼ばれ、昭和14年(1939)に招魂神社と改称された。
更に第二次大戦中は国の管理下に置かれていたが,戦後は宗教法人としてほとんどの神社は神社本庁の所属となっている。



    和歌山県護国神社は、城内「砂の丸」広場の南にあり、参道は「楠木」や「欅」の大木が茂っている。

 参道入り口の掲示板には、毎年の例祭案内が記載されているが、そのの中に「境内六碑慰霊祭」との記載がある。これは境内にある「歩兵第六十一連隊」はじめ「予科練」「少飛兵」など6団体の各存命者が、国のために亡くなった仲間を弔うために、それぞれ碑を建立し毎年お祀りをしています。
 (以下の写真ははその碑と建立団体です。いづれも「昭和の日」に残された1ページとして撮ったものです。)
 

 (歩兵第二百三十連隊の碑)       鎮魂(歩兵第六十一連隊の碑)





 (陸軍少年飛行兵の碑)          (歩兵第二百十八連隊の碑)  




  忠魂(予科練和歌山県友会 あヽ予科練)   顕彰碑(満蒙開拓青少年義勇団 の碑)
 



  


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2009年04月29日

昭和の日

4月29日は「昭和の日」という国民の祝日の一日である。
 
 昭和の時代の4月29日は、ゴールデンウイークを構成する祝日の一つで、「天皇誕生日」であった。
昭和天皇の崩御後は「みどりの日」と呼称を替えた祝日であったが、平成19年の法改正で「昭和の日」となり「みどりの日」が5月4日に移行した。

 祝日になった趣旨は「激動の日々を経た昭和の日々を回顧するとともに、目覚しい復興を果たした時代を省みて、わが国の将来に思いをいたす。」とある。

今年で3回目の「昭和の日」であったが、突然の「新型インフル」の出現で新聞TVはこの関連記事で溢れ「昭和は遠くに」押しやられてしまった。




 先日U社から「昭和を語り継ぐ」の出版案内が来ました。
戦地、軍隊、勤労動員、空襲、引き揚げ、など著名人12人が去る昭和20年8月15日(終戦記念の日)の体験談をCD/カセット集にして発売したとのこと。
  この時代を経験した年代がだんだんと少なくなりつつあるが、最近は回顧ブームにのって刊行したらしく、私もその時代の一人として何か書いておきたいと考えています。

 

玉音放送
 そのとき、わたしは海軍予備学生として神奈川県横須賀市にあった大楠海軍機関学校の校庭で聞きました。
いまでも当日は真夏の暑い日で蝉しぐれの中で雑音の多かったラジオ放送であったと記憶しています。
 当時、天皇の声(玉音といわれた)が聞けるなどとは誰も予想したものはなく、放送が終わったときは一瞬ポカンとした状態におかれたように記憶している。
 ややしばらくしてから誰言うとなく「終わった」とはいったが、「負けた」などと誰も口にしなかった。

 【海軍予備学生のこと】
 このことは後日記事にします。



 アイリス(5月の花)
5月にもなっていないのに、早くもアイリスが花を閉じようとしていました。(昭和の日とは何の関係がありません。)

  


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