2009年08月30日

回顧(1945ー③)

 私の1945年(昭和20年) 

 
 私達の年代にとって1945年(昭和20年)はそれぞれの思い出が沢山あるとおもいます。
最近この前後40年間の出来事などを纏めた「昭和史」を回顧する刊行物が発刊されているのが時々みかけます。
 
 私の昭和20年は
 ①1~2月  会社勤務(住金和歌山) 
 ②3~8月 海軍予備学生(横須賀大楠機関学校)
 ③9~12月 無職の時代

という激動の青春時代。現在のような恵まれた時代では想像ができないことばかり、改めてこの時代の経験について書いてみたいと考えました。 

 ①昭和19年10月から5ヶ月間の勤務であったが、当時若者が軍隊に取られ女子職員や女子挺身隊(勤労奉仕)がたくさん。学卒者の私達は大事にされた。そんなことで2月末に女子職員の計画で市内(気象台付近の料理店で送別会を催してもらった。

 因みにわたしの初任給は月70円であった。理工系大卒のは95円、また文系大卒で75円だったようだ。
 
 ②海軍予備学生時代の回顧は次回以降にゆずる。 
 



 ③失業の時代 
 昭和20年8月連合国軍最高司令官D、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、いよいよ日本が歴史上始めて占領時代にはいった。(この6カ月前の3月1日に私の入隊したのは厚木基地)
 
 マ司令官の来日前に米軍から京浜地帯の軍の解体を命ぜられ、私は終戦1週間後の8月22日に超満員の復員列車に揺られ2昼夜をかけて帰郷した。
 

 「配給制度」
物資の少ないわが国は、昭和15年(砂糖、マッチ)から始まった配給制度は逐年拡充され,米、味噌、醤油は勿論のこと生活必需品のほとんどが規制の対象となった。 
 当時の合言葉の一つに「ほしがりません勝つまでは」・・・。「神の国日本」は絶対負けることはない」など『やがて神風が吹いて勝利する」など今から考えると子供じみたことをいわれ、配給などに苦情を言うなどすると非国民扱いをされたものでした。

 「闇市」
戦後、一番速くできたのは「闇市」でした。配給品の遅配・欠配が当たり前になり衣食住の窮乏の中で和歌山市駅とJR和歌山駅に当時は東和歌山といわれた)周辺に青空市場が出現し、やがて焼け残りのトタンや材木でバラック小屋がたちならび「闇市」と呼ばれる商店街ができた。配給品や米軍などの横流し品がならびスイトンやドブロク焼酎など「ナンデモアリ」の市場には、腹ペコの市民の市場だった。

また、これらの商品を買い集めて卸をする「ヤミヤ」といわれた商売人も沢山いたのもこの頃だった。
 (写真はいづれも当時の面影をとどめていない最近のもの)



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