2010年02月27日
回顧(1945-④)
昭和20年の終戦年1~2月ごろ、一般市民は、まだまだ戦戦況のきびしさがさほど差し迫った状況ではなかった。時々、米軍のB29が上空を飛来しその都度防空警報が鳴らされ、従業員が工場の空き地に造られた防空壕に退避させられた程度で、さほど戦況が切迫しているとの実感が乏しかったようだった。(勿論、当時の軍による報道管制が異常だとは感じてはいても口にすることはできなかったが・・・)
晴れた上空の高高度を飛行したB29の機影がキラキラと雲間に光った時に、これを見た女子従業員が「キレイやわ・・」など歓声を挙げたのを上司に聞き咎められたていたことなどもあった。
(写真はプラモです)
満64年前の昭和20年(2945)2月27日 通知を受けていた神奈川県厚木海軍航空隊に入隊すべく、私は友人H君と大阪駅から東京行きの夜行列車に乗り込み上京した。
地理に不案内な2人はとりあえず一旦東京に出て、厚木に近い所に一泊する予定で上京したものだが、田舎者の2人はどこでも簡単に泊まれるだろう思い出発したものであった。
【機銃掃射】
翌28日朝、熱海のトンネルを抜けて間もなく車内放送があり「米軍艦載機グラマン」から同車が機銃掃射を受けているので、「窓のブラインドを引いて床に伏せるよう」との指示があり乗客全員がその指示に従い臥床した。
しかし列車は停車することもなく予定どうり東京駅に着いたが、窓越しに2,3機のグラマンの飛影が見えたものの、特別に恐怖感も持たなかった。
2月28日昼前に東京駅に着いた2人はどこ行く目的もなく、皇居前や日比谷公園あたりをぶらついた後、新宿から小田急線に乗った。 小田原にゆけば宿泊できるだろうと乗車したが、、どちらが言い出したかは記憶にないが途中の駅に「鶴巻温泉」という駅があることを知り、「温泉にでも浸つて1泊」をという甘い考えで名前にひかれ途中下車した。
ところが、この旅館街はいづこも陸軍の傷病兵用の療養所になっておりで一般人は宿泊不可とわかり、やむなく小田原に向かうべく同駅で電車をまったものの、たまたま降り出した大雪のため電車は不通。
なすすべもなく長時間待ちしやっと夜11時ごろ小田原に来たものが,いずれの旅館も満員。やっと大きな宿に頼み込んで廊下で一夜を過ごさせてもらい、3月1日朝膝がしら近くまで積った雪の中を踏みしめてやっと入隊した。
【H君とのこと】
H君は同期入社19名の中の一人で実家は同じ和歌山市内であったが、中学、高工とも別校で、入社決定したのちの夏期実習(昭和19年8月)に入寮した独身寮が初対面。入社後の配属先も同じ製造部であり、誰にでも好かれる好人物。
偶然にも同じ航空隊に入隊することがわかり、すべて彼の世話になったもの。
戦後、彼と私は同日に退社したのちは無職で過ごしていたところ、翌年6月彼の紹介で本町に新設中の鉄工所に入所できたことなど。いろいろと長年お付き合いをしてもらったが、3年前に病をえてお別れしたわが親友の一人だった。
(写真は、桃の節句を控えてきょう活けられた我が家の生け花です)
晴れた上空の高高度を飛行したB29の機影がキラキラと雲間に光った時に、これを見た女子従業員が「キレイやわ・・」など歓声を挙げたのを上司に聞き咎められたていたことなどもあった。
(写真はプラモです)
満64年前の昭和20年(2945)2月27日 通知を受けていた神奈川県厚木海軍航空隊に入隊すべく、私は友人H君と大阪駅から東京行きの夜行列車に乗り込み上京した。
地理に不案内な2人はとりあえず一旦東京に出て、厚木に近い所に一泊する予定で上京したものだが、田舎者の2人はどこでも簡単に泊まれるだろう思い出発したものであった。
【機銃掃射】
翌28日朝、熱海のトンネルを抜けて間もなく車内放送があり「米軍艦載機グラマン」から同車が機銃掃射を受けているので、「窓のブラインドを引いて床に伏せるよう」との指示があり乗客全員がその指示に従い臥床した。
しかし列車は停車することもなく予定どうり東京駅に着いたが、窓越しに2,3機のグラマンの飛影が見えたものの、特別に恐怖感も持たなかった。
2月28日昼前に東京駅に着いた2人はどこ行く目的もなく、皇居前や日比谷公園あたりをぶらついた後、新宿から小田急線に乗った。 小田原にゆけば宿泊できるだろうと乗車したが、、どちらが言い出したかは記憶にないが途中の駅に「鶴巻温泉」という駅があることを知り、「温泉にでも浸つて1泊」をという甘い考えで名前にひかれ途中下車した。
ところが、この旅館街はいづこも陸軍の傷病兵用の療養所になっておりで一般人は宿泊不可とわかり、やむなく小田原に向かうべく同駅で電車をまったものの、たまたま降り出した大雪のため電車は不通。
なすすべもなく長時間待ちしやっと夜11時ごろ小田原に来たものが,いずれの旅館も満員。やっと大きな宿に頼み込んで廊下で一夜を過ごさせてもらい、3月1日朝膝がしら近くまで積った雪の中を踏みしめてやっと入隊した。
【H君とのこと】
H君は同期入社19名の中の一人で実家は同じ和歌山市内であったが、中学、高工とも別校で、入社決定したのちの夏期実習(昭和19年8月)に入寮した独身寮が初対面。入社後の配属先も同じ製造部であり、誰にでも好かれる好人物。
偶然にも同じ航空隊に入隊することがわかり、すべて彼の世話になったもの。
戦後、彼と私は同日に退社したのちは無職で過ごしていたところ、翌年6月彼の紹介で本町に新設中の鉄工所に入所できたことなど。いろいろと長年お付き合いをしてもらったが、3年前に病をえてお別れしたわが親友の一人だった。
(写真は、桃の節句を控えてきょう活けられた我が家の生け花です)
Posted by jiiyasan at 22:21│Comments(0)