2007年10月30日

本居大平と一族の墓



 国学者本居大平(もとおりおおひら)
 本居大平(1756~1933)は、当時紀伊藩領だった伊勢の松阪の大きなトウフ屋の長男(少年時代の名前は稲懸茂穂)に生まれた。13歳のとき国学者「本居宣長」の門下生となり勉学を続けたが、その後学問への熱意と、人柄が見込まれ宣長の養子となった。
 のち紀州藩に仕えることなったが、文化6年藩主冶宝の命で和歌山に居を移し、「万葉集」「古事記」などを進講することとなった。また「紀伊風土記」の編纂にあたるなどして、ますます信頼厚く、側用人にとりたてられた。

 本居大平は、国文学のほか、和歌文章に長じ、松坂、京都等にも出講するなど門下生が1000人を超えたともいわれ、著書も多く残され、和歌山の国文学を盛んにした。
 天保4年78才で没。男の芝丁の「吹上寺」に葬られる。

 

 
 遥拝石 
  
 和歌山に移り住んだ本居大平とその一家の八墓の墓が臨済宗「吹上寺」(気象台の隣))にある。

また、これらの墓の間には
    「先祖親族墓遥拝所」
と刻された自然石がある。
  本居一族の皆さんは、ここから父祖の地「松坂」を遥拝したのだろう。




 
 
 吹上寺山門
 
 戦災やその後の都市計画、紀ノ川大橋の架設などで当時の「吹上寺」の付近の景観は一変した。吹上寺の山門も気をつけていないと見過ごすだろう。
 
 また、和歌山本居家は明治維新後は東京に居を移されたとのことで、以後の墓所は東京の谷中霊園となった。  


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2007年10月23日

木ノ本の獅子舞(つずき)

木本八幡宮
祭神:応神天皇 神功皇后 日霊大神



 こども獅子舞
本殿鳥居の前で、笛や太鼓に合わせて「こども獅子舞」が演じられます。茣蓙を敷いた上で演じるので、間近で見ることができます。観客の子供たちは車座になって拍手を送って、終わると沢山のおひねり(花)を投じます。



ダンジリの巡行
梯子獅子を舞う前に、神輿、ダンジリが町内を巡行します。
 和歌山寄りの「三道の辻」から約0・7キロ近くの道中を、3時間近くかけて、数箇所のポイントで獅子舞を演じながら進んでゆきます。沿道には沢山の見物人が集まり、拍手を送ります。また、ダンジリが、道中の献燈に触れないように、仮撤去しながら進みます。
 この道は、昔は村の唯一のメインストリートでしたが、今は狭い通りになってしまいました。
  


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2007年10月22日

木ノ本の獅子舞

 木ノ本の獅子舞(県指定無形民族文化財)
 10月21日(日)木本八幡宮(和歌山市西庄)の秋季例大祭で恒例の獅子舞が奉納されました。この獅子舞は全国でも珍しい「梯子獅子」といわれるもので、ダンジリの上の地上約5メートルの高さに渡された2本の青竹の上で舞うものです。



 500有余年の伝統を持つといわれるこの獅子舞は、2人1組で演じる勇壮な獅子舞であるが、演じ手となるまでには相当の修練を要するもので、地元では「保存会」をつくり平素から修練を重ねているとのことである。



舞の内容は、百獣の王ライオンが生まれたばかりの子獅子を谷底に蹴落とす場面や、這いあがってくるわが子を待ちながら谷底をのぞく姿や、やがて元気なわが子の姿を見て安心して居眠りする場面などが、太鼓、笛などにあわっせていきいきと演じられています。(写真は大祭前日の準備風景です)

  


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2007年10月17日

秋祭り

 

 射箭頭八幡神社
 祭神 : 応神天皇  日本武命  神功皇后   
 所在地 : 和歌山市本脇字糸切260番地
 由緒 : 射箭頭(いやとう)の社号は古く、神功皇后が三韓から帰国され、加太浦(現在の加太港)に御着船の際、御弓を携え、鏑矢(かぶらや)を射られたところ、その矢が紀水門飽浦の下地尾の崎(今の神社の近くらしい)に届いたという。
 
 その後神功皇后が其処を尋ねてこられ、社をたてられたという。
その際に、住民たちが弓の矢で餅を切って献上したことから、地名を「糸切」と呼ぶようになったとの民話が残されている。


 秋祭り行事

子ども餅つき大会
 例大祭日に神社境内で「子ども餅つき大会」が行われました。多くの子供たちが臼と杵でトントンと搗いて、できた餅はすぐにおいしく頂きました。



子どもみこし行列
  もちつきのあと、「子供みこし行列」が町内を練り歩きました。
まつり大鼓を先頭に、獅子神楽、神輿を引いて神社を出発して町内をまわり漁港までの間を威勢よくまわりました。漁港の広場では、かわるがわる神輿を担いで歓声をあげました。


 祭の集い 
宵宮には境内に恒例の夜店が出店したほか、神社の近くの広場では地元自治会主催の奉納イベントの「祭の集い」が開催され、舞踊、吹奏楽、拳法演技はじめ「いときり銭大鼓クラブ」の演技の披露やカラオケ大会などもあり、沢山の観客を集めて盛会でした。
  


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2007年10月09日

運動会



 運動会
 10月8日(日)秋晴れの好天の中で近くの小学校で運動会が行われていました。
「はしれ!走れ!」「バトンでつなごう」みんな懸命に走り、声をからして応援しました。
すばらしい運動会でした。



 校舎の3本の手製の懸垂幕には
 
 「くいのないように 一生けん命がんばろう!」

 「元気よく 全力で 競技しよう!」

 「みんなで協力して 楽しい運動会にしよう!」

と書かれていました。


 ダンスなども披露されていました。
組体操「日本の祭り」など、随分レーニングをつんだことでしょうね。先生ご苦労さんでした。


 一方、隣りの小学校庭では近くの保育園の園児たちが元気いっぱいお遊戯をしていました。  


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2007年10月01日

板碑『供養塔』



 板碑(いたび
浄土宗西岸寺(和歌山市小人町南ノ丁)の墓地は、道路を隔てた西側にあるが、この墓地入り口正面に大きな板碑がみえる。砂岩製のこの碑は、高さ約3m、巾約1mあり、碑文には建立年代が記入されていなが建立者名などから寛永年間(1620年代)と推定されているという。
 
 この板碑は、昭和60年4月、和歌山市指定文化財(史跡)となっており、墓地入り口脇に解説板がある。

 板碑」 石つくりの卒塔婆のことで、通常は緑泥岩のような平板石を用い、頂きを三角形に造られることが多い。



 安藤重能の供養塔 

この板碑は、大阪夏の陣『寛永元年(1615)で戦死した安藤彦四郎重能の供養のために、弟の安藤彦兵衛直重が建立したもの。
 
 安藤重能は、紀州藩家老・田辺藩主の安藤帯刀の嫡子であるが、はじめ大阪の長福寺に葬られ、のち三河国の安藤家菩提所に改葬された。西岸寺の寺伝によれば、この板碑はもと大阪の一心寺にあったものを移設ものといわれる。一心寺は徳川家と縁故の深い寺であり、三河国の墓とは別に戦没地に近いところに供養塔が営まれたものである。
 
本碑は近世初頭の和歌山地方史上重要な資料であるとともに、当時の墓制の一端を示す資料として注目される。(解説板より抜粋)


画家「川端龍子」の墓

西岸寺には和歌山が生んだ日本画家「川端龍子」(1885~1956)氏の墓がある。
氏の作品は,大作が多く大阪四天王寺の大壁画が広く知られている。昭和34年(1959)「文化勲章」を受章し、41年には「和歌山市名誉市民」の称号をおくられた。
 昭和41年4月没。80歳。龍子は、金力、権力にこびることを何よりも嫌って反抗心が強く、生涯にわたって強い在野精神に一貫した人であった事でも有名。  


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